目的のない勉強会

主にブルーバックスをまとめています

『弱いつながり』東浩紀

友人におすすめされて読み始めました。

p.14 環境を意図的に変えること

 多くのひとは、たったいちどの人生を、かけがえのないものとして生きたいと願っているはずです。環境から統計的に予測されるだけの人生なんてうんざりだと思っているはずです。
 ここにこそ、人間を苦しめる大きな矛盾があります。僕たちひとりひとりは、外側から見れば単なる環境の産物にすぎない。それなのに、内側からはみな「かけがえのない自分」だと感じてしまう。
 その矛盾を乗り越える——少なくとも、乗り越えたようなふりをするために有効な方法は、ただひとつ。
 環境を意図的に変えることです。環境をかえ、考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること。

 自由意志があるのかはわからない。環境の産物にすぎないのであるならば、その置かれる環境はどう変えたらいいのだろう。
 でも、ささやかな意志があるとして、環境を変えられるとすれば、環境は大いに自分を変えてくれると思う。

p.15 深い知り合いとの関係よりも、浅い知り合いのの関係の方が、成功のチャンスに繋がっている

 アメリカの社会学者。マーク・グラノヴィダーが一九七〇年代に提唱した有名な概念に、「弱い絆(ウィーク・タイ)」というものがあります。グラノヴィダーは当時、ボストン郊外に住む三〇〇人弱の男性ホワイトカラーを対象として、ある調査をしました。そこで判明したのは、多くのひとがひととひととの繋がりを用いて職を見つけている。しかも、高い満足度を得ているのは、職場の上司とか親戚にとかではなく「たまたまパーティで知り合った」といった「弱い絆」をきっかけに転職したひとの方だということでした。深い知り合いとの関係よりも、浅い知り合いのの関係の方が、成功のチャンスに繋がっている。

 なぜ弱い繋がりの方が満足度が高くなるのだろう。もし人間をノード、繋がりをエッジとするネットワークとして見るならば、弱い繋がりは既存の安定状態から新たな安定状態へ遷移させるきっかけになると思う。(蜘蛛の巣の一部を摘んで、他の蜘蛛の巣にくくりつけるみたいだ。でも、そんなに伸びない。)弱い繋がりによって、遷移した先で、また新たなつながりが生まれる。一方で、既存の繋がりは弱くなる。

密なネットワークは高度に冗長な情報を持つため、探索にはほとんど無用であるとするものである。一方、弱いつながり、即ち単なる知り合い関係では情報の冗長性がはるかに低いため、探索には極めて有効である。しばしば情報は力よりも重要であるから、個人が発展していく(求職等)には弱い繋がりの方が家族や友人関係よりはるかに重要となる。*1

 Wikipediaの情報だけど、高度に冗長な情報ってなんだろう。冗長性が低い方が、探索に有効とはどういうことだろう。

p.46 日本語と英語だけでは、「チェルノブイリへの観光客数の推移」といった基本的情報ですら手に入らない

 うちのスタッフもチェルノブイリについてかなりいろいろと調べていたのですね。しかし、日本語と英語だけでは、「チェルノブイリへの観光客数の推移」といった基本的情報ですら手に入らない。ところが会議で上田さんに尋ねてみると、目のまえですぐ検索をかけて、「ロシア語のウィキペディアに載ってます」というわけです。なんとウィキペディアです。それが僕たちには見えていなかった。(略)検索はそもそも、情報を探す側が適切な検索ワードを入力しなくては機能しません。そしてそこに限界がある。

 英語と比べて、日本語で専門的な情報(論文や動画、サイト)を探すことには限界がある。それは英語ユーザーが圧倒的に多いというシンプルな理由です。中国語においても、同じことが言える。特に中国は独自のウェブ(百度)を発展させているので、違いが明確にわかる。

p.81 違うのは情報ではなく時間です

 チェルノブイリを、ネットの写真や動画で見たりすることと、現場にいって見ることはかなり違いがあるという話。

 違うのは情報ではなく時間です。仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。そうなるとそこで思考が止まってしまう。
 けれど、現実ではそんなに簡単にキエフから日本に戻れない。だから移動の間に色々と考えます。そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しい言葉で検索しようという欲望が芽生えてきます。仮想現実で情報を収集し、すぐに日常に戻るのでは、新しい欲望が生まれる時間がありません。

 ツーリズムの語源は聖地巡礼(ツアー)だという。聖地なのだから目的地になにがあるのか事前によく知っている。知っているはずなのに巡礼する。巡礼の過程で新しい情報に出会う必要はなく、出会うべきは新しい欲望だという。つまり、旅行において目的地はさほど重要ではなく、重要なのはその過程にあるということだ。中国での旅行を思い出す。兵馬用はぼくにとってそんなに重要な記憶をもたらさなかったように思える。むしろそこにいく過程、鈍行で進む绿皮火车、舗装されておらず歩くたびに舞う砂煙、そんなことの方が記憶に鮮明だ。

p.96 未来のぼくが「過去のぼくはこう考えていた」といったとしても、そんなのは全くの嘘かもしれない

 未来のぼくが「過去のぼくはこう考えていた」といったとしても、そんなのは全くの嘘かもしれない。未来のぼくは、今のぼくの苦しみのことなど完璧に忘れてしまっているかもしれない。

 未来によって過去が変わるというのは同意できる。自由エネルギー原理では過去のアップデートが起こります*2

p.101 他人の苦しみを前にすると「憐れみ」を抱いてしまうので、群れを作り、社会を作ってしまう

 ルソーの人間観や社会観は、ホッブズやロックといった社会契約説の先行者とはまったく異なっています。ホッブズやロックは、人間は自然状態では争いを止められないのであり、だからそれぞれの権利を制限し、社会契約を結ぶのが「合理的」なのだと主張しました。ひらたく言えば、人間は理性的で論理的で、頭がいいので、自分の本性を抑圧し、社会を作るということです。
 それに対して、ルソーは、人間は孤立して生きるべきなのに、他人の苦しみを前にすると「憐れみ」を抱いてしまうので、群れを作り、社会を作ってしまうと説くのです。

 ルソーとホッブズらは二項対立的ではないと思う。なぜ人は社会を作るのかという問いを立てたとして、以下の点で対立的だろうか、考えてみる。
 ホッブズらは自然状態におけるやめられない争いを止めるため、契約を結ぶことで社会を作る。一方で、ルソーは人は「憐れみ」を自然に抱いてしまうため群れひいては社会を作るといっている。どちらも社会を作る要因としてあり得るだろうと僕は思う。
 社会を作るというのは、細胞が集団化するのに似ていて、違う。(人や細胞という)素が集まる点で似ているが、「憐れみ」を持つか否かという点で異なる。人は「憐れみ」を持ち、細胞は持たない(ように見える*3

 児童虐待を例に取りましょう。ここに、外見に全く異変がなく、綺麗な服を着た子どもがいるとする。その子が虐待を受けていると主張する。それを聞いてすぐに「助けなければ」と思うことができるか。それは難しい。その子は嘘をついているかもしれない。何か別の事情があるのかもしれない。もっと様子を見る必要がある。そう判断するのが自然です。(略)
 けれど、その子の腕が折れていたらどうでしょう。多くの人が、これは今すぐ手を打たなくてはならないと思うはずですし、それに異論も出ないでしょう。ルソーが「憐れみ」という言葉で呼んだのは、この差異のことだと思います。言葉でのみ虐待を訴える子と、身体に傷を負って虐待を訴える子に対する多くのひとの反応の違い——それは人間の限界でもあるけれど、しかしその限界こそが社会の基礎になる。

 やはり「憐れみ」というのは、状況に依るにせよ、見ることで生じる感情だ。ここでは、データの質の話をしていると思う。虐待があるか否かという判断における二項対立がある。その判断のもとになるデータを様子を見ながら人は判断する。身体に傷が見られるという、判断に大きく影響するデータが得られた時、人は二項対立において取捨選択する。  数学的には、これはベルヌーイ分布のベイズ学習である。背後にある共役事前分布であるベータ分布がデータにより変化するのである。興味を感じる点は、データに重みがついているということである。データは離散的で二項対立的なデータであり、それが尤度関数を通して事前分布に作用するのが普通でだけども、重みをつけるとすれば、尤度関数に重みを取り入れることになるのかな。少し勉強してみます。  また、「憐れみ」は上の学習においては出てこない。もう一段上の、判断の先にあると思う。

p.106
p.120
p.129
p.141 現地では思いついたことをどんどん検索し、その場で見聞を広げましょう

 それになにより、旅先で新しい検索ワードを手に入れた時、そこですぐ検索できることが意外と重要です。日本に帰ってきてあらためて調べようなどと考えても、調べるはずがない。旅先ではいつもの自分ではなくなります。その「ちょっと違った自分」を日本では回復できない。現地では思いついたことをどんどん検索し、その場で見聞を広げましょう。

 たしかに旅先では環境が違うからちょっと違う自分になるでしょう。感じたことは刹那的で失われやすく、だからこそ、その時その場で感じたことを広げていこうということだと理解をしました。
 僕はこの意見に反対します。僕は旅先ですぐに調べたりしたくありません。理由は、旅先の刹那的な感情は、たしかに失われやすいかもしれませんが、その失われやすいという弱い性質を大事にしたいからです。例えば、中国に行った時、町にあるご飯屋さんに入ります。壁に貼られているメニューを見て、読めない漢字や読めても実体がわからないものがよくあります。すぐに調べれば済むのですが、僕はただそれを眺めたり、知らないのに頼んだりすることがあります。僕がそうして眺めていると、たまに助けてくれる人がいます。あるいは、知らないので、それをどんなものか聞くことで教えてくれる人がいます。これは、弱いつながりそのものだと思います。なにより、すぐに意味に結びつけるのはあまり好きではありません。それに、つながらなくてもいいのです。ルソーが言った「人間は本来孤独である」とはこういうことなのかもしれません。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/マーク・グラノヴェッター

*2:https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022249621000973

*3: 「憐れみ」は、神経活動から生じるものである。神経活動は神経集団から生じる。神経集団は細胞集団(人)に包含される。人に「憐れみ」が生じるのであれば、他の多細胞生物にも「憐れみ」は生じそうである。けれども「憐れみ」のような感情は、神経活動から生まれるが、それにも層があり、単純な神経活動からは生まれないという説明が考えつく。つまり、単純でない神経活動から「憐れみ」は生まれる。単純でない神経活動は、高次脳機能とかと呼ばれる。すなわち、「憐れみ」は高次脳機能から生じ、単純な神経活動やそれを持つ細胞集団、ましてやそれを構成する細胞からは生じない。この説明は尤もらしいなと思う。