なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
近代はさまざまに価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑い得る、と。
p.44 ウサギ狩り
ウサギ狩りに行く人がいたらこうしてみなさい。「ウサギ狩りに行くのかい?それなら、これやるよ」そう言って、ウサギを手渡すのだ。
相手はどんな顔をするだろうか。嫌な顔をするとしたら、それはウサギ狩りの目的がウサギを狩ることではないからだと、パスカルは言う。人はウサギという獲物が欲しいのではなく、気晴らしがしたいがために仮に出かける。
p.118 暇と退屈は同じものではない
「暇」と「退屈」という二つの語は、しばしば混同して使われる。「暇だな」と誰かが口にした時、その言葉は「退屈だな」と言い換えられる場合が多い。しかし、当然ながら暇と退屈は同じものではない。
p.216 〈仕事〉は〈労働〉に比べて高い地位を与えられてきた
アレントによれば〈労働〉とは、人間の肉体によって消費されるものに関わる営みである。例えば食料や衣料品の生産などはそれにあたる。それはかつて奴隷によって担われていた。だから〈労働〉は忌み嫌うべき行為であった。
それに対し、〈仕事〉は世界に存在し続けて行くものの創造であり、例えば芸術がその典型である。〈労働〉の対象は消費されるが、〈仕事〉の対象は存続する。ゆえに〈仕事〉は〈労働〉に比べて高い地位を与えられてきた。
もっと一般化できるような気がする。つくる行為に焦点が当たっている。つくられるものに焦点を与えたらどうだろう。
p.276
何一つ言うことを聞いてくれない場所に置かれるとは、何もないだだっ広い広い空間にぽつんと一人取り残されているようなものである。ハイデッガーはこのことを「余すところなき全くの広域」に置かれると表現する。
そのような広域に置かれると言うことは、外から与えられる可能性が全て否定されていると言うことだ。外からは何も与えてもらえない。あらゆる可能性が拒絶されている。するとどうなるか?
人間は自分に目を向ける。
何もやるべきことがない時、人は自分に目を向けなければならない、これはわかる。では、自分に目を向けて、具体的に何を問うのか?
p.490 脳の中には次のような三つのネットワークがあることがわかっているのだという
熊谷によれば、現在、脳の中には次のような三つのネットワークがあることがわかっているのだという。
⑴ デフォルト・モード・ネットワーク(default-mode network: DMN)
⑵ 前頭頭頂コントロール・ネットワーク(front-parietal control network: FPC)
⑶ サリエンス・ネットワーク(salience network: SN)
⑴ は何もしていないとき、⑵ は予測モデルに対して小さな誤差が生じたとき、⑶ は大きな誤差が生じたときの脳の状態であるという。
SN では島皮質の前部(anterior insular cortex: AI )の活性化が重要であることが示唆されているが、脳の部位間での具体的な関係は明らかではないという。2023年の研究で、オプトジェネティクスによるAIの活性化により、DMNに関わる脳領域の活性が抑制されることがラットで示されている。