目的のない勉強会

主にブルーバックスをまとめています

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎

はじめに

⚠︎ 引用部では省略があります。そのため各自で本書を参照してください。挿入や改変はありません。

本編

p.47 心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない

まず肝心なことは、いつでも自分がほんとうに感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくことだと思う。君がなにかをしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない。(略)ごまかしがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、いったりしても、みんなうそになってしまうんだ。

p.62 なぜりんごの落ちたことから大発見をしたのかは、いつまでもわからなかった

 君のお母さんの説明を聞いていたぼくは、『ばんゆういんりょくってなにさと』と、質問したものだ。すると、お母さんもこまっちまってね。まず、地球と月、地球と太陽、いろいろな遊星などの関係から、説明してかかろうとしたんだ。今でもおぼえているけれど、お母さんは、ゴムまりやピンポンの玉をもちだして、『これが私たちのすんでいる地球よ。それから、これがお月さまよ。そうすると、こうなるのよ。』って、なんだかしきりに説明してくれたっけ。しかし、なにしろあいてが小学一年生なんだから、せっかく熱心な説明も、どうもそのかいがなかったらしい。ぼくも、なんだかわかったような、わからないような気持ちで聞いていたのをおぼえている。結局、そのときには、お母さんが困ったなあという顔をして、『こういうことは、まだ、あなたにはむずかしいの。もっと大きくなると、よくわかるのよ。』とか、なんとかいって、それでおしまいになったのさ。しかし、このこきのことは、へんにぼくの心に残って、それから大きくなるまでのあいだによく思い出した。よく思い出したが、なぜりんごの落ちたことから大発見をしたのかは、いつまでもわからなかった。

 りんごが三メートルの高さから落ちるのを見て、じゃあ十メートル、二十メートル、百メートル、二百メートル…と考える。月の高さまでりんごが行った時、それは落ちてくるだろうか。実際、月は落ちてきていない。地球からの引力と遠心力とが釣り合って、月は落ちてこない。りんごにも遠心力が働けば、重力と釣り合って落ちてこないはず。ニュートンは、重力と引力が同じものであると気づいた。

p.188 ああすればよかった、こうすればよかったって、あとからくやむことがたくさんあるけれど

「そりゃあ、おかあさんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとからくやむことがたくさんあるけれど、でも『あのときああして、ほんとによかった』と思うことだって、ないわけじゃありません。損得から考えて、そういうんじゃあないんですよ。自分の心の中のあたたかい気持ちを、そのままあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。」

 いい文章。

雑記

 統計学に、第一種の過誤と第二種の過誤という考えがある。例えば、本来効果のない薬を、効果があると判断すれば、第一種の過誤になる。一方、本来効果のある薬を、効果がないとすれば第二種の過誤になる。前者は効果があると判断するため、薬を服用するし、後者はしない。したことを悔やむことがあり、しなかったことを悔やむことがある。そして、本来効果のある薬を、効果があると正しく判断して、服用すれば、あとから『あのときああして、ほんとによかった』と思うかもしれない。そして、本来効果のない薬を、効果がないと正しく判断して、服用しなければ、あとから、あのときああしなくて、ほんとによかったと思うかもしれない。

 ところで、意思決定の場面で、統計の予測を考慮すれば、「自分の心の中のあたたかい気持ちを、そのままあらわして、あとから、ああよかったと」思えるのだろうか。

p.191 人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれる

「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだと認めない。なるほど、『自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ』というのは真理だが、しかしまた、人が自分自身をあわれだと認めるばあい、それがすなわち偉大であることだというのも、同様に真理である。」

 僕が何かを説明するよりも、次の文章を引用したほうがいいと思う。

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」 『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p.228

p.193 人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じることは、人間が本来そんなみじめなものであってはいけないからなんだ

 およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じることは、人間が本来そんなみじめなものであってはいけないからなんだ。
 コペル君、ぼくたちは、自分の苦しみ、悲しみから、いつでも、こういう知識をくみ出してこなければいけないんだよ。

 つらいと思うのは、一種の感情だ。感情はある種のズレから生じる。本来はこうだという設定値(セットポイント)があり、それと合わさる現状値(データ)がある。その差のことをズレと呼ぶ。ズレが小さければ、感情は生じず、ズレが大きければそれだけ大きな感情が生じる。
 設定値は可変だ。可変であるがゆえに、環境に左右される。「人間が本来そんなみじめなものであってはいけない」というのは、あるひとつの考え・意見にすぎない。逆は、人間はみじめでも構わない、となる。どちらを取るのかは人次第であるが、マジョリティーは前者だろう。考えたければ、みじめというのはどういうことか考えたらいい。

雑記

 意見は外部にあり、内部に入り込む。意見は複数あり、人それぞれに入り込むが、時代・場所を共有していれば、同じ意見が大多数の人に入り込むことなる。この時、大多数に入り込んだ意見(観念)もある一方で、少数に入り込んだ意見もあり、後者は偏見などと呼ばれる。

 呼び方は他にもあり正直よく分からない。外部と内部、多数の人を意識している。

p. ガンダーラの仏像を作った人々は、相当長い間東洋の空気を吸い、仏像の気分に浸っていたギリシア人であった。

  

君たちはどう生きるか』をめぐる回想 丸山真男*1

ひとから持ち上げられたり、舞台の前に押し出されたりすることを極度に避けた吉野さんが

 ひとから持ち上げられたり、舞台の前に押し出されたりすることを極度に避けた吉野さんがご存命ならば、こういう仕方の回想にも照れて顔をそむけられるかもしれません。でも、これはあくまで未知の一青年の魂に刻まれた、あなたの思想の形姿であって、ここにあなたが主体的に関与しているわけではありませんので、お許しをいただきたいと存じます。

 そういう方だったんですね。また、吉野さんの人柄は「モラーリッシュ」と形容されうる、と書いてある。

調べて考えたことをメモする。カントが関わる。

カントは,科学的な自然認識の成立根拠に超越的な人間理性をおき,それとの関係で感性とつながった悟性的認識と純粋な理性的認識を区別して,理論を2種に区分けするとともに,実践をも,感性的・経験的動機に規定されたプラグマティッシュ(実際的,有用的)な実践と,理性の法則に従うモラーリッシュ(道徳的,精神的)な実践とに区別して,後者すなわち倫理的実践(行為)をすぐれた意味での実践と考えた。*2

 モラーリッシュとは道徳的という意味らしい。それが理性の法則に従うとはどういうことだろう。

   まず、人間は観測により、データを得て(感覚)、生成モデルを作る(認識)。だから、観測できずデータを得られないものについては認識できない。データを用いて生成モデルを変化させる過程において、あるルールがあり、それを実践理性と呼ぶ。逆に、データを用いずに、生成モデルが変化していくこともあり、その変化のルールを純粋理性と呼ぶ。  観測できないものについて、純粋理性を用いて、考えよう(?)とする立場があり、それを批判することを純粋理性批判と呼ぶ。一方、観測できるものを、実践理性を用いて、考えようとする立場があり、それを批判することを実践理性批判と呼ぶ。  そして、モラーリッシュ=道徳的=実践的と考えれば、吉野さんは実践的なひとだったことになる。簡単に言えば科学的な人とも言えるだろうか。  

  

最後に

 この本は、文章中の一段落を切り取って引用する類の本ではないのだろう。重要だと思える箇所が文章中にグラデーションになっているし、何気ないストーリーが尾を引いて効いてくるからである。だから、どこを引用すればいいのかを決めるのに苦労した。