目的のない勉強会

主にブルーバックスをまとめています

『なめらかな社会とその敵』鈴木健

途中です

第 1 章 生命から社会へ

p.24 自分をコントロールすることを通して、他者と会社をコントロールすることが可能であるという欲望は残ったまま

 立場が下にある他人(部下や子どもなど)を管理しようとする人は少なくない。管理にも程度があるが、あらゆることを細かく報告させ、コントロールしようとする人間をマイクロマネジメント型の人間と呼ぶことがある。こうした人間が部下や子どもから見捨てられ、そして自らの過剰な管理を嘆き、反省、改心するというストーリーはどこかで必ず目にするものだ。他人を変えることはできない、だから自分を変えよう。この言葉は金のように光り輝く格言、つまり金言のように聴こえる。

180度考え方を切り替えたといっても、責任の帰属先を切り替えたにすぎない。自分をコントロールすることを通して、他者と会社をコントロールすることが可能であるという欲望は残ったままであることには変わりはない。(略)彼が気づかなくてはいけないのは、自分を含めて世界をコントロールすることは最終的にはできないのだという事実である。

 自分も他人もコントロールしないこと、つまり何にも干渉しないこと。老子無為自然の考えであろうか。無を成せば自ずから然り。
 著者によれば、複雑な世界を複雑なまま受け入れることはあまりにも難しく、それは脳に限界があるからだという。(脳はある近似として世界を認識しているという考えは、現在の哲学・科学でも広く受け入れられているように見える。)

 複雑なままでは理解できず、理解できないと対応もできない。理解して対応して胸を撫で下ろすためには、世界を単純なものとして見なすのは避けようがない。意識とはそもそもそうした目的のための装置であり、そうやって認知コストを下げているのである。

 なぜ理解する必要があるのか?それは、胸を撫で下ろすためである。なぜ胸を撫で下ろさなければいけないのか。それは焦りが生まれたからである。焦りはなぜ生まれるか。それは、膜で囲って自分を作ったからである。これは本書で言いたいことの一つだと思う。

雑記

 膜で囲む、というよりかは、自然と膜ができるのである。膜は複雑さから生まれる。複雑さとはネットワークとして概念化できるみたいだ。そこで、膜はマルコフブランケットとも呼ばれる。膜の中ではネットワークが新たに絡み合い、核や脳が生まれる。脳は局所的に秩序化したネットワークとも見える。(核と脳はどう違うんだろう?)脳は、外部の状態を推測しようとする。完全には予測できないので、誤差が生まれる。誤差は小さくなる必然性がある。誤差は焦りを生み出す。

 この辺りに科学のメスを入れていかなければ、どこにも行けないと思う。

p.26 未来を予言する最良の方法は、未来を発明すること

 アラン・ケイ(計算機科学)の言葉を借りるならば、「未来を予言する最良の方法は、未来を発明すること」なのである。しかし、そのためには、「敵と味方を区別する」戦争を人類史からなくすことがいかに困難か、その理由をリアリストの立場から冷徹に分析する必要がある。

 「未来を予言する最良の方法は、未来を発明すること」とはどういうことだろう? 生物は、能動的に外部に干渉することができる。これにより、未来を予測しやすくすることができる。壁を作れば、その方向からは敵は来ない。未来を発明するというのは、外部を予測しやすく変えるということだろう。

 なぜ、「敵と味方を区別する」戦争を人類史からなくすことがいかに困難か、分析しなくてはいけないのだろう。未来を予測するためには、壁を作るのが手っ取り早い。壁が、戦争につながることを言うことが分析にあたるならば、その分析は何のために必要か、この文章はちょっとわからない。でも、なんかかっこいい言葉ですね。

p.31 社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核のアナロジーではない

 社会システムは生命システムにおける一現象に他ならない。これは、生命システムと社会システムが形式的に同型の構造を持っているというニコラス・ルーマン社会学)らのような主張とは異なる(Luhmann, 1984)。

 システムとは、要素とルールを含んだ構造のことだ。社会システムでの要素は人間であり、ルールとは民主主義のようなものだろうか。生命システムとしての細胞では、要素は分子であり、ルールは転写・翻訳といったところだろうか。(ルールとは一体なんだろう。)  

ニコラスらの主張を知らないので調べてみた

ニクラス・ルーマンパーソンズから引き継いだ社会システム論と、1940年代から1950年代に生まれたシステム理論とに加え、オートポイエーシスの考え方を導入し、第二世代の社会システム理論を切り開いた*1

システム理論とは何だろう

システム理論によれば、システムとは以下のようなものである*2
システムは互いに作用している要素からなるものである。
システムは部分に還元することができない。
システムは目的に向かって動いている。
ひとつのシステムの中には独特の構造を持った複数の下位システムが存在する。
下位システムは相互に作用しあいながら調和し、全体としてまとまった存在をなしている。

なるほど、やはりシステムは要素からなり、ルールがあるということだ。そして、システムはある目的も持っていたり、部分的な下位システムに分けらられるなど説明している。どういう点で社会と生命のシステムが同型なのか、もう少し調べないとわからない。今は深入りしない。

生命システムと社会システムが似ているのはアナロジーや形式的同型性ではなく、一方が他方を包摂する現象であることに由来する。したがって、社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核のアナロジーではない。社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核の進化的展開である。

社会システムは、あくまで生命システムに包摂されて理解されると言っている。理解していない。そもそも、社会システムにおける膜と核の問題って何だっけ。

最初の細胞が、RNA、DNA、プロテインのどのようなネットワークを馬体として生まれたのかについては、諸説ある。だがその起源が何であろうとも、ひとたび生まれてしまえば、起源問題は代謝ネットワーク内の相互依存性の中に散失してしまう。

正しいのかもしれない。RNA世界仮説のように起源がRNAであるとも言えるかもしれないし、DNAやタンパク質が起源であるかもしれない。しかし、相互に触媒し合う(DNAがRNAを作り、RNAがタンパクを作る一方で、タンパクがDNAを作り、RNAを作る)性質があり、ルールが変化してしまうと、起源はよくわからなくなる。

結構昔にこういう話を読んだことがある

石が積み重なった結果、ある時うまい具合に組み合わさって橋ができたとする。そして、橋の下や上にある、橋を力学的に構成するのに無関係な石がそこから風やらで取り除かれたとしよう。今、僕らの目の前には、アーチ状の橋があるだけで、それがどのようにできたのか、具体的に知ることはできない。

確かこの本だったような…

表1.1 生命史に反復する膜と核
レベル 現象 生物学的起源 膜と核
単細胞 細胞膜
免疫
DNAと核
私的所有
物質的メンバーシップ
制御


多細胞 神経系
体性感覚
なわばり
身体の制御
身体の所有感覚
空間の所有感覚


他者 ミラーニューロン
心の理論
自由意志と自己意識
他者の所有感覚
他者の制御
ホムンクルス


社会 国境

社会契約
社会的な膜
社会的な制御
近代国家のメンバーシップ


第 2 章 なめらかな社会

p.65 権力者という小自由度を経由すれば、大自由度の全体に効率的に影響を及ぼすことができる

 組織の規模が大きくなると、意思決定を行うためには権力者が必要になる。権力者が組織的に要請されるのは、権力者が権力を行使したいからではなく、他の人々が権力者を通して権力を行使したいがためである。組織の複雑さが一定量を超えると、全体を制御することが困難になる。権力者はこの問題を解決する社会制度である。

 いわゆる権力者はネットワークの核である。なぜ核が生まれるか。「権力者という小自由度を経由すれば、大自由度の全体に効率的に影響を及ぼすことができる」からである。
 でも、「複雑さ」「自由度」という概念がありそうなのはわかるが、実際は見えない。ネットワーク的に(潜在的な)複雑さを定義し、それが増えると核が生じることを示すことはどうやってできるのか。それが問題である。
 

雑記

 核は一度生まれたら消えにくい性質を持つ。

 中国の皇帝のシステムに関しても、それと同じことが言えるように感じます。システムの形式面だけが生き延びていて、それが毛沢東の権力をはからずも維持するのに貢献したのかなと。ついでに言っておくと、内容を消し去った形式というのは、文字通り形骸化して無効になるかと思いきや、むしろ、逆です。形式として純化された場合の方がしぶとく生き残るということがある。毛沢東の例は、その典型だと思います。『おどろきの中国』p.164 *3

 だから、その構造に気づいて声を上げる人間は、歴史の中でも少なくなかった。全体主義と呼ぶのかな。

 天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
 藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。『続堕落論坂口安吾*4

 核の周りに、大衆とは違う、核を生み出す機能を持つ構造があるのでないだろうか?不定形で、それは境界を持たずなめらかだから、見えないだけなのではないだろうか。細胞において、それはなんだろうか?(あと分裂するときにだけ、核が一時的に消失するのはどうしてだろう。)

人工生命研究会主催『なめらかな社会とその敵』文庫化記念鼎談

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12:40~ 自と他を分けていく、自己組織化の中で、あえてそれに逆らっていくのはなぜか?

 生命の必然的な流れ(自己組織化)の中で、膜をつくって内外の境界が明確になる。社会システムも、これに倣って、内外が明確になるのであれば、なぜあえてこれに逆らう(境界をなめらかにする)のか、という佐山先生からの質問。 

 これに対しての鈴木健先生からの回答は、境界が明確になった結果、現れてくる不条理な問題があり、境界をなめらかにすることで、これを解決に導くことができるということだった。具体的には、戦争や差別といった社会現象が問題にあたる。 

 細胞レベルにおいても、境界がはっきりして、かつ周囲の資源が少なくなった時に、取り合いが起きる。取り合いに有意な性質が生じると、自然淘汰により、その性質が蔓延ることになる。性質には攻撃性のものがあり、それが社会における攻撃に対応し、ひいては戦争につながる。 

 具体的に、細胞レベルにおける、資源獲得に有利な性質を考えてみよう。非攻撃性と攻撃性の性質(形質)があり、前者は能動輸送のポンプ(グルコース・トランスポーターなど)が挙げられ、後者は活性酸素の放出や貪食作用が考えられる。現在の社会では、戦争のウエポンとして核爆弾がある。これをなくそう・不活化しようとすることは、活性酸素の放出や貪食を起こさないようにすることに等しく思える。膜をなめらかにすることは、このなくそう・不活化しようとする対策よりも、一段階上の視点に立った対策であるように思える。膜が先行要因(原因)で攻撃性が後行要因(結果)と考えれば。 

 また、社会における境界をなめらかにすることは、細胞膜を壊すことを意味しない。社会における国家の境界は、細胞の膜と似て非なるもの(膜であるが、性質が違う)で、これはシステムの膜が多段階になっていることを理解すればよい、らしい。

23:20~ アメリカでは、選挙をするために、政治側が分断を引き起こしている

 実は、アメリカ人は政治に関して中庸な人が多いらしい。一方で、選挙では、意見を明確にしなければいけない。 

 何だか、サイコロが振られるみたいな話だな。サイコロを振る前は、ある政党(事象)についてなめらかな(連続的な)値が与えられており、ある意味でグラデーションとして存在しているけど、一度サイコロが振られて目が出てしまうと、なめらかさは残らず、無機質な整数値が与えられる。サイコロを振らないことを許す、これをみんなに受け入れてもらうにはどういう理由づけが必要だろう? 

 なんかディリクレ分布を受け入れればいのかもしれないな。カテゴリ分布としてサイコロは降るんだけど、その値がディリクレ分布に反映されるだけで。現在は、離散的なカテゴリ分布を目の前に起き続けてるけど、それを連続的なディリクレ分布で置き換える。そうすれば、ベイズ的に、自然なかたちで発展(オンライン学習)していく気がする。