雑記

面白いと思ったことをまとめます

『壁とその不確かな壁』村上春樹

村上春樹

気になった文章を引用して、いま感じたことを素直に書いていきます。

引用部では省略があります。挿入や改変はありません。

第一部

p.11 心から何かを望むのは、そんなに簡単なことじゃない

「街は高い壁に囲まれていて、中に入るのはとてもむずかしい」ときみは言う。「出ていくことは更にむずかしい」
「どうすればそこに入れるんだろう?」
「ただ望めばいいのよ。でも心から何かを望むのは、そんなに簡単なことじゃない。時間がかかるかもしれない。その間にいろんなものを捨てていかなくちゃならないかもしれない。あなたにとって大切なものをね。…(略)」

ある種の集中というのは、孤独から生じる。本当の孤独というのものは意図的に(望めば)手に入るものじゃない。その集中と表現した状態は、村上においては井戸の壁抜けに対応する。壁を抜けている間は集中状態にある。意図的に壁を抜けることはできない。意図的に井戸に降りることはできたとしても

p.19 誰が先頭に立つというのでもなく、誰が隊列を導くというのでもない

獣たちの列は曲がりくねった石畳の通りを進んでいく。誰が先頭に立つというのでもなく、誰が隊列を導くというのでもない。

動物というのは集団で動くものだ。集団はリーダーがいなくても、あるルールがありさえすれば、まるで一つの生き物のようにふるまう。例えば、Vicsek モデルは「他の個体とぶつからないように」「周囲と同じ方向を向く」ようなルールを個々に仮定して、集団のふるまいを調べるモデルである。鳥や魚の群れのふるまいをシミュレーションしたりする。統制のとれた集団のうごきに、リーダーの存在は必ずしも必要ではない。
ところで、統制のとれたとはどういう意味だろう。何らかの意味を達成するための統制のような気がするけども。

www.youtube.com

p.37 この世界に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ

もしこの世界に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ。

門衛のことば。それに対して、僕はこう思う。

この世界に完全なものはありはしない

僕は言葉には出さない。そして、この壁は誰が作ったのか門衛に尋ねる。

「誰もつくりゃしない」(略)「最初からここにあったのさ」

村上は、完璧とか完全ということに若い頃から注意を向けてきたと思う。完璧とは何だろう、と何度自分に問いかけてきたのだろう。

最初から壁があったとはどういうことだろう。

p.43 壁の外の街はどんな街だったのか

彼女が壁の外の街はどんな街だったのか尋ねる。僕はこう答える。

そこでは多くの言葉が行き交い、それらがつくり出すあまりに多くの意味が溢れていた。

一方、僕は壁の中の街について

この動きを持たない、言葉少ない街できみは生まれて育った。簡素で静謐で、そして完結した場所だ。電気もガスもなく、時計台は針を持たず、ものごとはそれぞれ固有の場所に、あるいはその目に見える 周辺に揺るぎなく溜まっている。

現代社会は、意味を持ったものに溢れている。例えば、電気、ガス、時計や、車、幹線道路、ショッピングモール。それらは村上の初期作から暗示的に書かれてきた。一方で、壁の中の街にはこれらはない。しかしながら、完結した場所だという。

雑記

意味を持つもので溢れた社会ならば、完結しない。一方、意味を持つもので溢れていなければ、完結している。
壁の中の街だって、意味を持つものが完全にないわけではない。家や道路、火を焚く薪や薬罐、獣たちを操る角笛がある。つまり、完結というのは、意味を持つものが一つもない状態を示すわけではない。完結というのは、時間の中で、意味の持つものが増えていかない性質を示すように思える。例えば、街には電気が存在しない。これから先、電気が普及するわけでもない。同様に、街にはスマホがないが、これから先も出現しないだろう。これは壁の外にの現代社会とは大きく異なる。では、なぜ壁の外の街では、意味のあるものが増え続けて、一向に完結しないのだろう。答えは、一言で言えば、欲望にある。

p.58 影が死ねば暗い思いもそこで消え、後に静寂が訪れるの

「影は何かの役に立っているのですか」と君は尋ねる。
 わからない、と私は言う。
「なのに、どうしてみんなは影を捨てないの?」
「捨て方を知らなかったということもある。でももし知っていたとしても、たぶん誰も影を捨てたりはしないだろうね」
「それはどうして?」
「人々は影の存在に慣れていたから。現実に役に立たなないとは関わりなく」

役に立つもので溢れた社会にも、役に立たないものがある。それが影だ。
逆に、役に立つものがほぼない社会には、影はない。

「影が死ねば暗い思いもそこで消え、後に静寂が訪れるの」
 君が口にすると、「静寂」という言葉は限りなくしんとしたものに聞こえる。
「そして壁がそれを守ってくれるんだね?」

静寂だけが残る。

p.63 その草の名前を君は知らない

それらの多くの薬草の名前を尋ねたことがあるが、君もその名前を知らなかった。多分それらの草も、この街の他の多くの物事と同じようにそもそも名前を持たないのだろう。

君がつくってくれた濃い緑色の薬草茶の、その草の名前を君は知らない。

この街の人々は、多くの食事を必要としないのと同じように、多くの言葉を必要としないのだ。

とても静かだ。

p.67 永劫というもののひとつの問題点

 しかし、そこからぼくらはどこに向かおうとしているのか、どこに向かえばいいのか、そのイメージが浮かんでこない。なぜならぼくらはその浜辺で、傘を差して二人で並んで座っていることで、もう既に完結してしまっているからだ。既に完結してしまったものが、そこから腰を上げてどこに向かえるだろう?
 あるいはそれが永劫というもののひとつの問題点かもしれない。これからどこへ向かえばいいのかわからないこと。

目的というものは、達成してしまえばそれで終わりだ。そこで満足するか、新たな目的を掲げるか、その二択しかない。

p.76 純粋な好奇心

純粋な好奇心によるものなのだと私は説明した。知識として得たいだけだ。何かの役に立つかどうかではなく……。しかし門衛には「純粋な好奇心」という概念が呑み込めないようだった。

この街には好奇心というものがもともと存在しないのかもしれない。

好奇心も一種の欲望だ。だとすれば、やはり壁の内側には欲望が存在しないのだろう。

p.100 システムに同化

 それは——高熱を一時的に出すことは——おそらく新任の夢読みとしての通過儀礼のようなものであり、避けて通れない過程なのだろう。そうやって私は少しずつこの街の一部として受け入れられ 、システムに同化していくのだ。私はそのことを喜ばしく思うべきなのだろう。君もこうしてそれを喜んでくれているのだから。

何かに慣れる時には、人はそれらしい理由を言葉にする。

雑記

慣れる過程については、安部公房の「砂の女」が一番うまいと思う。

p.103 このシステムを維持するためには、誰かがその役目を引き受けなくちゃならない

「いいですか、おれの目からすれば、あっちこそが本当の世界なんです。そこでは人々はそれぞれ苦しんで歳を取り、弱って衰えて死んでいきます。そりゃ、あんまり面白いことじゃないでしょう。でも、世界ってもともとそういうものじゃないですか。(略)」

影は壁の外の世界に戻ろうと言う。朝に門が開いて、日が暮れれば閉まる。おまけに獣までうろうろしている。壁の中はまるでテーマパークのようだという。ここは笑いました。

「あんたはどうして獣たちが、こんなに簡単にばたばたと死んでいくと思いますか?」
 わからない、と私は言った。
「彼らはいろんなものを引き受けて、何も言わずに死んでいくんです。おそらくはここの住民たちの身代わりとしてね。街を成り立たせ、このシステムを維持するためには、誰かがその役目を引き受けなくちゃならない。そして気の毒な獣たちがそいつを引き受けているわけです」

完全に静寂なシステムは存在しない。それは完全に止まったシステムだ。少しでも動けば、何らかのゴミクズが出てくる。

p.176 意識と非意識との薄い接面

私は今まさに、こちらの世界とあちらの世界との狭間に立っている。ここは意識と非意識との薄い接面であり、私は今どちらの世界に属すべきなのか選択を迫られている。

意識が重要そうだ。

「おれが言いたいのは、この街がとても技巧的な、人工的な場所だってことです」

と、影は言う。

人工的に作られたものは、たいていは意識的に作られている。意識的に作られていると言うのは「ああすれば、こうなる」という可能性が考慮されていると言うことだ。考慮された上で、一番よさそうだと思われる形をものに与える。

雑記

言い換えれば、主知主義的と言える。意識に頼る傾向のことで、対義語は主意主義。それぞれ Intellectuarism Voluntarism と呼ばれる。インテリとボランティア。主意主義の最たるものはアートである。

最近こんな文章を見た。

「この『風の歌を聴け』という小説についていえば、僕自身にもわからないことがたくさんあるんです。要するにここに書かれていることの大半は極めて無意識的に出てきたものなんです。(略)いわば『自動筆記』みたいな感じ(略)。自分の言いたいことを(略)最初の数ページの中に殆んど全部書いちゃったということなんです」(「村上春樹魯迅 そして中国」p.14, 藤井省三著)

村上が文芸批評家との対談で話したことだ。

第二部

p.226 今はもう使われていない、半ば埋められた井戸もあった

平家建ての小ぶりな一軒家で、川の近くにあった。焦茶色の板塀に囲まれ、小さな庭がついていた。庭には古い柿の木が一本生えていた。今はもう使われていない、半ば埋められた井戸もあった。井戸の横には山吹が茂っており、その奥の小さな灯籠にはうっすらと緑色の苔が生えていた。雑草はきれいに抜かれ、ツツジの茂みは端正に刈り揃えられていた。

井戸については後日記事を書こうと思います。

今作品における井戸には、分厚い蓋が被せられて、大きな重石が載せられている。とても深い井戸で、子どもが落ちないように。p.251

p.376 あなたの本当の意思はそうではなかったかもしれない

あなたはその謎の街に居残ることを、自らの意思できっぱり選択されたのだと。でも、あなたの本当の意思はそうではなかったかもしれない。あなたの心はいちばん深いそこの部分で、その街を出てこちら側に戻ることを求めていたのかもしれませんよ。

意思のこと。

雑記 そもそも意思とは何か、存在するのか。もし意思が存在しないと仮定すれば、ある行動・行為は確率的に決まるといっていいのだろうか。いや、意思とは、ある行為を表出(サンプリング)する確率が 1 もしくは限りなく 1 に近いもの(あるいは -1 )だろう。そうだとすれば、意志は決定的でありつつ、確率的である。でも、おそらく、意思は幻想だろう。確率的に出てきた行為と、事前の行為の予測との誤差により生じる感覚の一種だと思う。これは喉が渇いたとかの感覚と同じ機構によると期待しているけど、まだよくわからないことだ。

今回は、街に残りたいという潜在的な確率が大きかったので、行為として街に残る決断がなされた(サンプリングされた)ものの、街に残りたくない(外に出たい)という潜在的な確率も小さくはなかった。事後の感覚は、これら二つの情報を加味(期待値を取るなど)しているのではないか。あるいは、影と共に深い溜まりへ向かう最中、このベルヌーイ分布から、常にサンプリングされ続けていた。最初は街に残らない確率が高かったものの、道中でサンプルの結果を受けて(自己フィードバック的に)確率分布の形が変化した。データは外からだけでなく、内側からも得られるのだ。

p.435 十秒と一秒との間にどれほどの実利的な差があるだろう

イエロー・サブマリンの少年は誕生日の曜日を言い当てるという能力を持っている。

自分の誕生日が何曜日だったのか、グーグルを使って調べれば、今では十秒もかからず誰にでも簡単にわかってしまうのだ。少年はそれをたった一秒で言い当てることができるのわけだが、西部劇の元ファイトではあるまいし、十秒と一秒との間にどれほどの実利的な差があるだろう?私は少年のために、少しばかり寂しく思った。この世界は日々便利に、そして非ロマンチックな場所になっていく。

 辞書によると「実利的」とは「現実の利益となるさま」のことである。時間という一つの指標を持った場合には、速い方がいい。遅いものは、速いものに置き換えられていく。一方で、僕らは時間に完全に縛られているわけじゃない。時間の短さという点で、あることが最適化された結果、他の要素が変化することはよくある。その要素が僕らの感覚(例えば幸福感のようなもの)に影響することはありそうだ。
 わかりやすい指標を使うのは便利だが、結果から見て本当に良いのかは別問題だ。

p.449 魂にとっての疫病

 私はそれについてしばらく思考を巡らせていた。魂にとっての疫病。それから言った。
 「街は、というか当時の街を司っていた人々は、外の世界で蔓延する疫病を締め出すことを目的として、高い頑丈な壁で街のまわりを囲った。」

 欲望から生み出されるもの

p.471
p.474
p.535 ロシア五人組

アレクサンドル・ボロディンはいわゆる「ロシア五人組」の一人であったはずだ。あとは誰だっけ?

 ロシア五人組は、19世紀後半にかけて活動した民族主義的な音楽を志向した括りらしい。民族主義とは、民族を重視することで、民族とは同じ思想や場所を共有する集団のことだと理解している(じゃあ違う場所に住む同じ思想を持つ人たちは別の民族か。出生地とすべきかな)。

 ボロディンは化学者でもある。彼の名前にちなんだ反応がある。

ハンスディーカー反応 - Wikipedia

第三部

p.610 私は何かが始まることを望んではいなかった

壁の中の私は、橋の向こうでイエロー・サブマリンの少年を見つける。

 何かが始まろうとしているのだろうか?
 私は何かが始まることを望んではいなかった。私が必要とするのは、何も始まらないことだ。このままの状態が終わりなく永遠に続くことだ。しかしいったん始まった変化は——それがいかなる種類のものであれ——もう止めることができないのではないか、そんな予感があった。

 化学反応みたいだね。閉じられた系であれば必ず変化は止まるし、開かれた系であれば半永久的に変化する。

雑記

 読んだ時に「予測」「DA」というメモをしている。DAというのはドーパミンのことだ。予測誤差が生じたときにドーパミンがある神経で出ることが知られている。いつもと同じ(平穏)ときには予測の範疇なので、ドーパミンは少ないと考えられる。
 壁の中は、予測可能で、静的。現実は、予測不可能で、活動的、しかし予測可能を目指す。実は両者は同じことを目指している気がする。欲を社会から排除するのは不可能だ。老子、水、植物はやわらかい、死ぬと固まる。予測可能は、固めるということ。極端に考えてはいけない。

p.629
p.637 誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ誰もいない

 『パパラギ』という本がある。南太平洋の島サモアの酋長が、ヨーロッパを旅したときに書いたという設定。酋長は、しゅうちょうと読み、未開の部族の長という意味。
 イエロー・サブマリンの少年は私にこう話す。

 その中にこんな記述があります。酋長は集まったみんなに向かって言います。『誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ誰もいない』。これはおそらくヨーロッパ人が都市に高い建物を建設し、上へ上へと向かって伸びていくことを揶揄した発言です。

 モンテーニュの言葉で「どんなに高い玉座に座るにしても、座っているのは自分の尻の上だ」というのがある。天井があるか、もしくはどこまで高く登るのか明確にしていれば、まだ救いはありそうだけれど、現実には救いはないように見える。

 「しかし、酋長の話には逆らうようですが、ひとつこのように考えてみたらどうでしょう。つまり、椰子の木よりも高く椰子の木に登ってしまった人間は、全くいないわけではないのだと。たとえばここにいるぼくとあなたは、まさにそのような人間ではないでしょうか」

 壁の中では、登っていない、ということだと思ったのだけど、違うのだろうか。

p.655