目的のない勉強会

主にブルーバックスをまとめています

『ノルウェイの森』村上春樹

ノルウェイの森(上)

p.15 あなたは闇夜に盲滅法にこの辺を歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの

あなたは闇夜に盲滅法にこの辺を歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの。

 村上春樹において、井戸はある種の象徴である。それは、デタッチメントからコミットメントへの通路を意味する。
 すると、井戸に落ちる・降りることは、デタッチメント(孤立した状態)を示す。直子はデタッチしているのだろうか。僕は、彼女がデタッチしていると思う。人がデタッチする原因は様々であるが、彼女の場合は幼馴染の死が原因(の一つ)であっただろう。結果として、彼女はコミットメントに至ることはなかった。井戸に降りることは危険が伴い、死ぬこともある。本書は、彼女をその例として書き上げた作品であるといえる。

雑記

 デタッチメント、コミットメントという状態を、あたかも当然にあるものとしているが、これを可視化することは可能なのだろうか。この二つの概念を、ある一つの潜在変数で表すするとどうだろう(ベータ分布)。そこから現れてくる観測可能な変数にはどういうものがあるだろう。例えば、行動量や血圧などの生理的な変数が考えられる。でも、小説の中でデータを取るとすれば、文章がデータとなる。そこから、登場人物の、ある状態を統計的に推測することはできるのだろうか。

p.118 自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ

「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範って一体どんなものなんですか?」と僕は訊いてみた。
「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。
「笑いませんよ」と僕は言った。
「紳士であることだ」(略)
「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
「あなたは僕があった人の中でいちばん変わった人ですね」と僕は言った。 「お前は俺がこれまであった人間の中でいちばんまともな人間だよ」と彼は言った。そして勘定を全部払ってくれた。

 紳士とは何か。まともとは何か。前に考えていたみたい。

catano.hatenablog.com

ノルウェイの森(下)

p.188 自分に同情するのは下劣な人間のやることだ

「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけど、お前も相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」
「いいですよ」
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」 
「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていった。

 同情とはなにか。同情とは、あることについて自分を許すことだ。

 意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。こんなふうにしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
 やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をついて立ち上がった。p.202

 今度は、自分のぬかるみへと戻らずに、ため息をつきながらも立ち上がる。

 僕にどんな変化があったのだろう?

p.242 僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対しては僕は全く違った種類の感情を感じるのです

 僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑の間に存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がするのです。僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対しては僕は全く違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。

 対立する二つの極がここでもあるようだ。片方は静かな性質を持ち、もう片方は動的な性質を持ち、それぞれ直子と緑という具体的な形をとっている。
 まるで、『ハードボイルド・ワンダーランド』の、静的な壁の中と動的な壁の外に対応するみたいに思える。村上は、同じ問題を別の角度から書き出していく作業を繰り返しているのだなと思った。