目的のない勉強会

主にブルーバックスをまとめています

【読書】虫眼とアニ眼 [養老孟司、宮崎駿]

先日、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を観てきました。
彼がどんな人が知りたくなったので本書を読みました。

養老孟司との対談形式で、1997年、1998年、2001年の三回の対談が収録されています。

対談1 1997

p.41 やぐらみたいなものをまず組み立てる(宮崎)

映画を作るときというのは、こうやってこうやれば納まるなという、やぐらみたいなものをまず組み立てるわけです。(中略)つまり、解決するためには、解決可能な課題に絞り込まなきゃいけない。(宮崎)

宮崎駿は創作時に何かしらの問題を提議すると言っている。

もののけ姫」であるサンという女の子の、人間に対する憎悪とか不信を、はたして解放することができるかどうかというのが課題だったんですが、作っていくうちに、どうにも解決できない、解放なんかさせたらウソになる、そういうところに行かざるを得なかった。自分の中で全然払拭できないんです。(宮崎)

ただし、問題が創作を通して、必ず解決するかといえばそうではないらしい。

p.43 ぼくには確信なんてなにもないんです(宮崎)

できた作品に関して、どうかって聞かれても、こんなこと言うのはみっともないことですけど、ぼくには確信なんてなにもないんです。(中略)この映画を作んなきゃいけないと思いこんだ動機みたいなものが、実は多くの人と共有していたと言うことくらいしか、僕には答えようがない。(宮崎)

p.43 脳みそ人間だけを育てようとしてる(宮崎)

宮崎駿の元へ、親たちから手紙が届く。子どもはトトロが大好きで、もう100回くらい見ている、と言う。それを読むたびに宮崎駿はこれはヤバいなあと思う。

養老さんが言うところの脳化社会にぴったり適応するような脳みそ人間だけを育てようとしてるでしょう。トトロの映画を一回見ただけだったら、ドングリでも拾いに行きたくなるけど、ずっと見続けたらドングリ拾いに行かないですよ。(宮崎)

なぜ繰り返し見させるのか、親側に特に理由はないだろう。理由があるとすれば、見るたびに気づかなかったことに気づくことができるから、かもしれない。これは明らかに打算的な行為だ。分からないことを知るために、もう一度見る。これは悪いとは言えない。悪いのは何度も何度も見ただけで、全てを理解した気になることだろう。

何度も繰り返し見たり読んだりする作品が僕にもあるにはある。なぜ読むかと言えば、僕にも分からない。少なくとも、何かを得ようとしているわけではない。それは悪くないのではと思う。逆に、何かを得ようとして、執拗に追及しまくることか?それも必ずしも悪いとは思えない。ただ、繰り返すことで、行為から目的が抜け落ちる(形骸化する)ことがある。それはこわい。

脳化社会とは何か

都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。(唯脳論

僕の理解では、脳化とは脳による行動により(つまり人為的に)ものがつくられたり・つくり変えられたりすることである。地面を平らにし、壁をつくる。雑草は抜かれ、選ばれた植物だけが道路脇に並ぶ。地面がでこぼこしてたら、転ぶかもしれない。転べば、怪我をするかもしれない。「ああすれば、こうなる」と予測し、繰り返し、比較し、一番良さそうな行動を選び、社会全体に適用していく。一見合理的であるが、人の脳は完全に合理的ではない(全ての可能性を考慮できない)ため、どこかでゆがみが生じる。脳化していく結果生じるゆがみを肌で感じつつも、わかりやすい利益・メリットが目の前にぶら下がっていれば、人はそれに手を伸ばすものだ。理由がつけられるから。

p.45 すぐなにか原因があるはずだとか、誰かのせいにしたがる(宮崎)

親の方は、すぐなにか原因があるはずだとか、誰かのせいにしたがるけど、どうも、「せい」だけではすまないくらいのスケールで、何かが突然やってきて巻き込まれていく。子どもたちはそういう感じを、本能的にキャッチするんじゃないかという気がして仕方がないんです。ところがそういうことに対して、大人はまったく答えてないですね。とりあえずは「勉強しろ」と言う(笑)。

今回の新作でも、こうした大人が出てきたな。理由をつければ、行動しやすくなる。理由がつけられないものは無視する。

p.49 平らな地面の上で、前ならえして、行進なんかしてちゃダメなんだ(宮崎)

いま子どもたちに起きているさまざまな問題が”教育問題”だけで解決するのかどうか。文部省や教師のせいにする人はいっぱいいるけど、それは違うと僕は思うんです。みんなでよってたかって、こういうふうにしたんですよ。じゃあどうしたらいいのかって考えると、僕が思いつくのは、学校の校庭を平らなのをやめてデコボコにしろとか、運動会は、丘から丘に紐を張って、それにぶら下がって渡れば良いじゃないかとか、そのくらいしか思いつかない。(略)このままじゃダメなんですよ。平らな地面の上で、前ならえして、行進なんかしてちゃダメなんだ。(宮崎)

宮崎駿はコミット(デタッチの逆)の傾向が強い人だと思う。対象は子どもたち。

ちなみにこの本の最初20ページくらいは宮崎駿のカラーのスケッチで、デコボコな保育園とかが描かれている。絵というものはすごい。

p.50 感性とは「なんかほかと違うぞ」って変化がわかること(養老)

感性の基本には、ある種の「差異」を見分ける能力があると思う。(略)平たく言えば、感性とは「なんかほかと違うぞ」って変化がわかることと言っていいんじゃないだろうか。で、現代の人間、特に子どもたちが、今どこに差異を見ているのかを考えると、結局人間関係の中にそれを見ちゃっているんですね。僕らの頃は、「なんか違うぞ」っていうのは「蟹がいねえぞ」だったんです。(略)いまや子どもまでもがそういったディテールを見分ける能力が抜け落ちてしまっている。(養老)

ディテールを見分けるというのは好奇心から生まれ、同時にディテールを見分けているうちに好奇心を養うと思う。だから、細部に神が宿るという。ディテールを無視する競争社会では、好奇心は育たない傾向にある。問題といえば問題だけど、今にはじまったことなのか、という点で真に問題かどうかは僕には分からない。

p.51 自然環境というのはものすごいディテール(養老)

蝶は飛ぶときに、好き勝手に飛んでいるわけではなくて、「蝶道」と呼ばれる道に従ってヒラヒラ飛んでいるんですね。(略)蝶は周囲の環境を全部それなりに把握して、脳から各運動器官に出力しているのだろうと。そう考えれば各個体の運動の軌跡が全部一緒ということも納得できる。(略)そうやってハタと気づくのは、自然環境というのは、ものすごいディテールで成り立っていて、今の人間は、それを完全に無視して生きているということです。(養老)

海野和男さんの蝶道の動画 www.youtube.com

蝶道についての有益な科学論文は見つけることができなかった。何が蝶道の形成に役立つのかは分からなかった。英語では Flyway になると思われる。

あるブログでは

この行動は、特にアゲハチョウの仲間に見られ、飛ぶルートは食樹や食草の位置、飛ぶルートにある葉っぱの明るさなどが影響しているといわれています。よって、時間帯によって蝶道は変化していきます。毎日同じ時間に同じ場所を飛ぶことが観察されます。*1

p.53 人間に関心が向きすぎていて

その先生が「差別はなくならない」という。何が問題なんでしょう?もっと一人ひとりが強くなることなんでしょうか?なんて聞いてみたんですが、昔を考えてみても、もっとひどいイジメや差別はあったけど、とにかくみんないろいろ切り抜けて、こんなに悲惨なことにはならなかった。(略)でもいま、養老さんのお話をうかがっていると、人間に関心が向きすぎていて、その結果「アイツが気に入らない」だとか「アイツはダメなやつだ」とか、人間に関しての話題ばかりになるんだ、と。(宮崎)

p.54 遠い人類より、隣の人を愛しなさい

昭和三八年に東京からカワセミが消えたんです。(略)結局、あの急激な高度経済成長で、僕らはなにかを侵してしまった。(略)世の中には悪いヤツが必ずいて、そいつをやっつければ、この世は良くなるという考え方、あれは、もうやめようと思っているんです。そうじゃなくて、こうなったのは、みんなで一緒にやっちゃったんだというふうに思わないと、何も道は生み出せないと思う。(宮崎)

ただでは成長はできない。その結果失われたものをどう取り戻すのか。

この前散歩をしたときに通りかかった教会の前に書いてあったんですが、マザー・テレサは「遠い人類より、隣の人を愛しなさい」って言ったそうですね。なるほどと思って帰ってきたんですが、改めてそう言われると、確かに僕らは人類のことを考えすぎてますね。(宮崎)

韓非子曰く、遠水は近火を救わざるなり。遠くの親類より近くの他人。

続く