目的のない勉強会

主にブルーバックスをまとめています

『なめらかな社会とその敵』鈴木健

途中です

第 1 章 生命から社会へ

p.24 自分をコントロールすることを通して、他者と会社をコントロールすることが可能であるという欲望は残ったまま

 立場が下にある他人(部下や子どもなど)を管理しようとする人は少なくない。管理にも程度があるが、あらゆることを細かく報告させ、コントロールしようとする人間をマイクロマネジメント型の人間と呼ぶことがある。こうした人間が部下や子どもから見捨てられ、そして自らの過剰な管理を嘆き、反省、改心するというストーリーはどこかで必ず目にするものだ。他人を変えることはできない、だから自分を変えよう。この言葉は金のように光り輝く格言、つまり金言のように聴こえる。

180度考え方を切り替えたといっても、責任の帰属先を切り替えたにすぎない。自分をコントロールすることを通して、他者と会社をコントロールすることが可能であるという欲望は残ったままであることには変わりはない。(略)彼が気づかなくてはいけないのは、自分を含めて世界をコントロールすることは最終的にはできないのだという事実である。

 自分も他人もコントロールしないこと、つまり何にも干渉しないこと。老子無為自然の考えであろうか。無を成せば自ずから然り。
 著者によれば、複雑な世界を複雑なまま受け入れることはあまりにも難しく、それは脳に限界があるからだという。(脳はある近似として世界を認識しているという考えは、現在の哲学・科学でも広く受け入れられているように見える。)

 複雑なままでは理解できず、理解できないと対応もできない。理解して対応して胸を撫で下ろすためには、世界を単純なものとして見なすのは避けようがない。意識とはそもそもそうした目的のための装置であり、そうやって認知コストを下げているのである。

 なぜ理解する必要があるのか?それは、胸を撫で下ろすためである。なぜ胸を撫で下ろさなければいけないのか。それは焦りが生まれたからである。焦りはなぜ生まれるか。それは、膜で囲って自分を作ったからである。これは本書で言いたいことの一つだと思う。

雑記

 膜で囲む、というよりかは、自然と膜ができるのである。膜は複雑さから生まれる。複雑さとはネットワークとして概念化できるみたいだ。そこで、膜はマルコフブランケットとも呼ばれる。膜の中ではネットワークが新たに絡み合い、核や脳が生まれる。脳は局所的に秩序化したネットワークとも見える。(核と脳はどう違うんだろう?)脳は、外部の状態を推測しようとする。完全には予測できないので、誤差が生まれる。誤差は小さくなる必然性がある。誤差は焦りを生み出す。

 この辺りに科学のメスを入れていかなければ、どこにも行けないと思う。

p.26 未来を予言する最良の方法は、未来を発明すること

 アラン・ケイ(計算機科学)の言葉を借りるならば、「未来を予言する最良の方法は、未来を発明すること」なのである。しかし、そのためには、「敵と味方を区別する」戦争を人類史からなくすことがいかに困難か、その理由をリアリストの立場から冷徹に分析する必要がある。

 「未来を予言する最良の方法は、未来を発明すること」とはどういうことだろう? 生物は、能動的に外部に干渉することができる。これにより、未来を予測しやすくすることができる。壁を作れば、その方向からは敵は来ない。未来を発明するというのは、外部を予測しやすく変えるということだろう。

 なぜ、「敵と味方を区別する」戦争を人類史からなくすことがいかに困難か、分析しなくてはいけないのだろう。未来を予測するためには、壁を作るのが手っ取り早い。壁が、戦争につながることを言うことが分析にあたるならば、その分析は何のために必要か、この文章はちょっとわからない。でも、なんかかっこいい言葉ですね。

p.31 社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核のアナロジーではない

 社会システムは生命システムにおける一現象に他ならない。これは、生命システムと社会システムが形式的に同型の構造を持っているというニコラス・ルーマン社会学)らのような主張とは異なる(Luhmann, 1984)。

 システムとは、要素とルールを含んだ構造のことだ。社会システムでの要素は人間であり、ルールとは民主主義のようなものだろうか。生命システムとしての細胞では、要素は分子であり、ルールは転写・翻訳といったところだろうか。(ルールとは一体なんだろう。)  

ニコラスらの主張を知らないので調べてみた

ニクラス・ルーマンパーソンズから引き継いだ社会システム論と、1940年代から1950年代に生まれたシステム理論とに加え、オートポイエーシスの考え方を導入し、第二世代の社会システム理論を切り開いた*1

システム理論とは何だろう

システム理論によれば、システムとは以下のようなものである*2
システムは互いに作用している要素からなるものである。
システムは部分に還元することができない。
システムは目的に向かって動いている。
ひとつのシステムの中には独特の構造を持った複数の下位システムが存在する。
下位システムは相互に作用しあいながら調和し、全体としてまとまった存在をなしている。

なるほど、やはりシステムは要素からなり、ルールがあるということだ。そして、システムはある目的も持っていたり、部分的な下位システムに分けらられるなど説明している。どういう点で社会と生命のシステムが同型なのか、もう少し調べないとわからない。今は深入りしない。

生命システムと社会システムが似ているのはアナロジーや形式的同型性ではなく、一方が他方を包摂する現象であることに由来する。したがって、社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核のアナロジーではない。社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核の進化的展開である。

社会システムは、あくまで生命システムに包摂されて理解されると言っている。理解していない。そもそも、社会システムにおける膜と核の問題って何だっけ。

最初の細胞が、RNA、DNA、プロテインのどのようなネットワークを馬体として生まれたのかについては、諸説ある。だがその起源が何であろうとも、ひとたび生まれてしまえば、起源問題は代謝ネットワーク内の相互依存性の中に散失してしまう。

正しいのかもしれない。RNA世界仮説のように起源がRNAであるとも言えるかもしれないし、DNAやタンパク質が起源であるかもしれない。しかし、相互に触媒し合う(DNAがRNAを作り、RNAがタンパクを作る一方で、タンパクがDNAを作り、RNAを作る)性質があり、ルールが変化してしまうと、起源はよくわからなくなる。

結構昔にこういう話を読んだことがある

石が積み重なった結果、ある時うまい具合に組み合わさって橋ができたとする。そして、橋の下や上にある、橋を力学的に構成するのに無関係な石がそこから風やらで取り除かれたとしよう。今、僕らの目の前には、アーチ状の橋があるだけで、それがどのようにできたのか、具体的に知ることはできない。

確かこの本だったような…

表1.1 生命史に反復する膜と核
レベル 現象 生物学的起源 膜と核
単細胞 細胞膜
免疫
DNAと核
私的所有
物質的メンバーシップ
制御


多細胞 神経系
体性感覚
なわばり
身体の制御
身体の所有感覚
空間の所有感覚


他者 ミラーニューロン
心の理論
自由意志と自己意識
他者の所有感覚
他者の制御
ホムンクルス


社会 国境

社会契約
社会的な膜
社会的な制御
近代国家のメンバーシップ


第 2 章 なめらかな社会

p.65 権力者という小自由度を経由すれば、大自由度の全体に効率的に影響を及ぼすことができる

 組織の規模が大きくなると、意思決定を行うためには権力者が必要になる。権力者が組織的に要請されるのは、権力者が権力を行使したいからではなく、他の人々が権力者を通して権力を行使したいがためである。組織の複雑さが一定量を超えると、全体を制御することが困難になる。権力者はこの問題を解決する社会制度である。

 いわゆる権力者はネットワークの核である。なぜ核が生まれるか。「権力者という小自由度を経由すれば、大自由度の全体に効率的に影響を及ぼすことができる」からである。
 でも、「複雑さ」「自由度」という概念がありそうなのはわかるが、実際は見えない。ネットワーク的に(潜在的な)複雑さを定義し、それが増えると核が生じることを示すことはどうやってできるのか。それが問題である。
 

雑記

 核は一度生まれたら消えにくい性質を持つ。

 中国の皇帝のシステムに関しても、それと同じことが言えるように感じます。システムの形式面だけが生き延びていて、それが毛沢東の権力をはからずも維持するのに貢献したのかなと。ついでに言っておくと、内容を消し去った形式というのは、文字通り形骸化して無効になるかと思いきや、むしろ、逆です。形式として純化された場合の方がしぶとく生き残るということがある。毛沢東の例は、その典型だと思います。『おどろきの中国』p.164 *3

 だから、その構造に気づいて声を上げる人間は、歴史の中でも少なくなかった。全体主義と呼ぶのかな。

 天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。
 藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。『続堕落論坂口安吾*4

 核の周りに、大衆とは違う、核を生み出す機能を持つ構造があるのでないだろうか?不定形で、それは境界を持たずなめらかだから、見えないだけなのではないだろうか。細胞において、それはなんだろうか?(あと分裂するときにだけ、核が一時的に消失するのはどうしてだろう。)

人工生命研究会主催『なめらかな社会とその敵』文庫化記念鼎談

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12:40~ 自と他を分けていく、自己組織化の中で、あえてそれに逆らっていくのはなぜか?

 生命の必然的な流れ(自己組織化)の中で、膜をつくって内外の境界が明確になる。社会システムも、これに倣って、内外が明確になるのであれば、なぜあえてこれに逆らう(境界をなめらかにする)のか、という佐山先生からの質問。 

 これに対しての鈴木健先生からの回答は、境界が明確になった結果、現れてくる不条理な問題があり、境界をなめらかにすることで、これを解決に導くことができるということだった。具体的には、戦争や差別といった社会現象が問題にあたる。 

 細胞レベルにおいても、境界がはっきりして、かつ周囲の資源が少なくなった時に、取り合いが起きる。取り合いに有意な性質が生じると、自然淘汰により、その性質が蔓延ることになる。性質には攻撃性のものがあり、それが社会における攻撃に対応し、ひいては戦争につながる。 

 具体的に、細胞レベルにおける、資源獲得に有利な性質を考えてみよう。非攻撃性と攻撃性の性質(形質)があり、前者は能動輸送のポンプ(グルコース・トランスポーターなど)が挙げられ、後者は活性酸素の放出や貪食作用が考えられる。現在の社会では、戦争のウエポンとして核爆弾がある。これをなくそう・不活化しようとすることは、活性酸素の放出や貪食を起こさないようにすることに等しく思える。膜をなめらかにすることは、このなくそう・不活化しようとする対策よりも、一段階上の視点に立った対策であるように思える。膜が先行要因(原因)で攻撃性が後行要因(結果)と考えれば。 

 また、社会における境界をなめらかにすることは、細胞膜を壊すことを意味しない。社会における国家の境界は、細胞の膜と似て非なるもの(膜であるが、性質が違う)で、これはシステムの膜が多段階になっていることを理解すればよい、らしい。

23:20~ アメリカでは、選挙をするために、政治側が分断を引き起こしている

 実は、アメリカ人は政治に関して中庸な人が多いらしい。一方で、選挙では、意見を明確にしなければいけない。 

 何だか、サイコロが振られるみたいな話だな。サイコロを振る前は、ある政党(事象)についてなめらかな(連続的な)値が与えられており、ある意味でグラデーションとして存在しているけど、一度サイコロが振られて目が出てしまうと、なめらかさは残らず、無機質な整数値が与えられる。サイコロを振らないことを許す、これをみんなに受け入れてもらうにはどういう理由づけが必要だろう? 

 なんかディリクレ分布を受け入れればいのかもしれないな。カテゴリ分布としてサイコロは降るんだけど、その値がディリクレ分布に反映されるだけで。現在は、離散的なカテゴリ分布を目の前に起き続けてるけど、それを連続的なディリクレ分布で置き換える。そうすれば、ベイズ的に、自然なかたちで発展(オンライン学習)していく気がする。

 

PRML 12.1.1 補足:データ共分散行列

はじめに

catano.hatenablog.com

上の記事では、主成分分析を扱いました。その中でデータの共分散行列が行列・ベクトル表記で出てきます。 

ここでは、行列・ベクトル表記からスカラー表記にすることで、データ共分散行列 $\mathbf{S}$ の理解を深めることを目的とします。

本編

  データ共分散行列 $\mathbf{S}$ の行列・ベクトル表記です。

$$ \mathbf{S} = \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N \mathbf{(x_n-\bar{x})(x_n-\bar{x})^\mathrm{T}} \tag{12.3} $$

ここで、簡単のため、以下のような二次元ベクトルとしましょう。ちなみに、多次元の場合も同様に計算できます。

 \displaystyle \mathbf{x_n} = \left(\begin{array}{c} x_n \\ y_n \end{array}\right), \mathbf{\bar{x}} = \left(\begin{array}{c} \bar{x}_n \\ \bar{y}_n \end{array}\right)

では、スカラー表記にして計算していきます。

 
\begin{align}
\mathbf{S} &= \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N \left\{ \left(\begin{array}{c} x_n \\ y_n \end{array}\right)-\left(\begin{array}{c} \bar{x}_n \\ \bar{y}_n \end{array}\right)\right\} \left\{ \left(\begin{array}{c} x_n \\ y_n \end{array}\right)-\left(\begin{array}{c} \bar{x}_n \\ \bar{y}_n \end{array}\right) \right\} ^\mathrm{T} \\\\
&= \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N 
\left( \begin{array}{c} x_n - \bar{x}_n \\ y_n - \bar{y}_n \end{array} \right)
\left( \begin{array}{c} x_n - \bar{x}_n \\ y_n - \bar{y}_n \end{array} \right) ^\mathrm{T} \\\\
&= \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N 
\left( \begin{array}{c} x_n - \bar{x}_n \\ y_n - \bar{y}_n \end{array} \right)
\left( (x_n - \bar{x}_n) , (y_n - \bar{y}_n) \right) \\\\
&= \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N 
\begin{bmatrix}
(x_n - \bar{x}_n)(x_n - \bar{x}_n), & (x_n - \bar{x}_n)(y_n - \bar{y}_n) \\
(y_n - \bar{y}_n)(x_n - \bar{x}_n), &  (y_n - \bar{y}_n)(y_n - \bar{y}_n) \\
\end{bmatrix} \\\\
&= 
\begin{bmatrix}
\frac{1}{N} \sum_{n=1}^N (x_n - \bar{x}_n)(x_n - \bar{x}_n), & \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N (x_n - \bar{x}_n)(y_n - \bar{y}_n) \\
\frac{1}{N} \sum_{n=1}^N (y_n - \bar{y}_n)(x_n - \bar{x}_n), & \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N (y_n - \bar{y}_n)(y_n - \bar{y}_n) \\
\end{bmatrix} \\\\
&= 
\begin{bmatrix}
\sigma_{xx} & \sigma_{xy} \\
\sigma_{yx} & \sigma_{yy}
\end{bmatrix}
\end{align}

最後は、共分散の定義を用いて \sigma で簡潔に表現しました。

おわりに

・最後の共分散の定義は、後日また記事を書きたいです。

【PRML】12.1.1 主成分分析の分散最大化による定式化【数式読解編】

もくじ

はじめに

(僕のような)数学に不得意な人を読者として想定していますので、冗長なところもあるかと思います。不備や不明点等あればコメントいただけると幸いです。

また随時補足していく予定です。

本編:12.1.1 分散最大化による定式化

射影されたデータの分散は、以下のように計算できる*1

$$ \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N ( \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n}- \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}} )^2 \tag{12.2} \\ = \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N (\mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n}- \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}}) (\mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n}- \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}}) \\ = \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N ( \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n}\mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n} - \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n}\mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}} - \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}}\ \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n} + \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}}\ \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}}) \\ = \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N (\mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n x_n^\mathrm{T}u_1} - \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n \bar{x}^\mathrm{T}u_1} - \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n \bar{x}^\mathrm{T}u_1} - \mathbf{u_1^\mathrm{T}\bar{x}\ \bar{x}^\mathrm{T}u_1}) \\ = \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N { \mathbf{u_1^\mathrm{T} (x_n x_n^\mathrm{T} - 2x_n \bar{x}^\mathrm{T} - \bar{x}\ \bar{x}^\mathrm{T}) u_1} } \\ = \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N { \mathbf{u_1^\mathrm{T} (x_n-\bar{x})(x_n-\bar{x})^\mathrm{T} u_1} } \\ = \mathbf{u_1^\mathrm{T}} { \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N \mathbf{(x_n-\bar{x})(x_n-\bar{x})^\mathrm{T}} } \mathbf{u_1} \\ = \mathbf{u_1^\mathrm{T}} \mathbf{S} \mathbf{u_1} $$

ここで、データ共分散行列を $ \mathbf{S} = { \frac{1}{N} \sum_{n=1}^N \mathbf{(x_n-\bar{x})(x_n-\bar{x})^\mathrm{T}} } $ とおいています。詳しくは補足*2を参考にしてみてください。

次に、射影されたデータの分散を最大化したいが $|\mathbf{u_1}| \to \infty$ を防ぐような制約付き最大化にならないといけない。つまり、$\mathbf{u_1^\mathrm{T}u_1}$ を守りながら、ラグランジュ乗数 $\lambda_1$ を導入して、 ラグランジュ関数 $\mathbf{u_1^\mathrm{T}} \mathbf{S} \mathbf{u_1} + \lambda_1 (1 - \mathbf{u_1^\mathrm{T} u_1}) \tag{12.4}$ を最大化する*3。 なお、最大化するには、$\mathbf{u_1}$ による微分がゼロとなればいいので、まずは微分します。

$$ \frac{\partial}{\partial\mathbf{u_1}} \left\{ \mathbf{u_1^\mathrm{T}} \mathbf{S} \mathbf{u_1} + \lambda_1 (1 - \mathbf{u_1^\mathrm{T} u_1}) \right\} \\ = \frac{\partial}{\partial\mathbf{u_1}} \mathbf{u_1^\mathrm{T}} \mathbf{S} \mathbf{u_1} + \frac{\partial}{\partial\mathbf{u_1}}(\lambda_1 - \lambda_1\mathbf{u_1^\mathrm{T} u_1}) \\ = \frac{\partial}{\partial\mathbf{u_1}} \mathbf{u_1^\mathrm{T}} \mathbf{S} \mathbf{u_1} - \lambda_1\frac{\partial}{\partial\mathbf{u_1}} \mathbf{u_1^\mathrm{T} u_1} \\ = 2 \mathbf{S} \mathbf{u_1} - 2 \lambda_1 \mathbf{u_1} $$

微分した結果をゼロとおいて整理します。

$$ 2 \mathbf{S} \mathbf{u_1} - 2 \lambda_1 \mathbf{u_1} = \mathbf{0} \\ \mathbf{S} \mathbf{u_1} - \lambda_1 \mathbf{u_1} = \mathbf{0} \\ \mathbf{S} \mathbf{u_1} = \lambda_1 \mathbf{u_1} \tag{12.5} $$

固有値問題に帰着することがわかりました*4。    

おわりに

主成分分析、一体何に使うんだ。そう思って応用例を調べてみました。

catano.hatenablog.com

*1:とはいえ、なんでこの式が出てくるんだ、という人もいますよね。僕もそうでした。また、記事にまとめたいですが、急ぎの方は、射影されたデータひとつが $ \mathbf{u_1^\mathrm{T}x_n}$ となるわけを考えてみてください

*2:catano.hatenablog.com

*3:ラグランジュの未定乗数法についてはまた記事を書きたいです

*4:固有値問題についてはまた記事を書きたいです

『弱いつながり』東浩紀

友人におすすめされて読み始めました。

p.14 環境を意図的に変えること

 多くのひとは、たったいちどの人生を、かけがえのないものとして生きたいと願っているはずです。環境から統計的に予測されるだけの人生なんてうんざりだと思っているはずです。
 ここにこそ、人間を苦しめる大きな矛盾があります。僕たちひとりひとりは、外側から見れば単なる環境の産物にすぎない。それなのに、内側からはみな「かけがえのない自分」だと感じてしまう。
 その矛盾を乗り越える——少なくとも、乗り越えたようなふりをするために有効な方法は、ただひとつ。
 環境を意図的に変えることです。環境をかえ、考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること。

 自由意志があるのかはわからない。環境の産物にすぎないのであるならば、その置かれる環境はどう変えたらいいのだろう。
 でも、ささやかな意志があるとして、環境を変えられるとすれば、環境は大いに自分を変えてくれると思う。

p.15 深い知り合いとの関係よりも、浅い知り合いのの関係の方が、成功のチャンスに繋がっている

 アメリカの社会学者。マーク・グラノヴィダーが一九七〇年代に提唱した有名な概念に、「弱い絆(ウィーク・タイ)」というものがあります。グラノヴィダーは当時、ボストン郊外に住む三〇〇人弱の男性ホワイトカラーを対象として、ある調査をしました。そこで判明したのは、多くのひとがひととひととの繋がりを用いて職を見つけている。しかも、高い満足度を得ているのは、職場の上司とか親戚にとかではなく「たまたまパーティで知り合った」といった「弱い絆」をきっかけに転職したひとの方だということでした。深い知り合いとの関係よりも、浅い知り合いのの関係の方が、成功のチャンスに繋がっている。

 なぜ弱い繋がりの方が満足度が高くなるのだろう。もし人間をノード、繋がりをエッジとするネットワークとして見るならば、弱い繋がりは既存の安定状態から新たな安定状態へ遷移させるきっかけになると思う。(蜘蛛の巣の一部を摘んで、他の蜘蛛の巣にくくりつけるみたいだ。でも、そんなに伸びない。)弱い繋がりによって、遷移した先で、また新たなつながりが生まれる。一方で、既存の繋がりは弱くなる。

密なネットワークは高度に冗長な情報を持つため、探索にはほとんど無用であるとするものである。一方、弱いつながり、即ち単なる知り合い関係では情報の冗長性がはるかに低いため、探索には極めて有効である。しばしば情報は力よりも重要であるから、個人が発展していく(求職等)には弱い繋がりの方が家族や友人関係よりはるかに重要となる。*1

 Wikipediaの情報だけど、高度に冗長な情報ってなんだろう。冗長性が低い方が、探索に有効とはどういうことだろう。

p.46 日本語と英語だけでは、「チェルノブイリへの観光客数の推移」といった基本的情報ですら手に入らない

 うちのスタッフもチェルノブイリについてかなりいろいろと調べていたのですね。しかし、日本語と英語だけでは、「チェルノブイリへの観光客数の推移」といった基本的情報ですら手に入らない。ところが会議で上田さんに尋ねてみると、目のまえですぐ検索をかけて、「ロシア語のウィキペディアに載ってます」というわけです。なんとウィキペディアです。それが僕たちには見えていなかった。(略)検索はそもそも、情報を探す側が適切な検索ワードを入力しなくては機能しません。そしてそこに限界がある。

 英語と比べて、日本語で専門的な情報(論文や動画、サイト)を探すことには限界がある。それは英語ユーザーが圧倒的に多いというシンプルな理由です。中国語においても、同じことが言える。特に中国は独自のウェブ(百度)を発展させているので、違いが明確にわかる。

p.81 違うのは情報ではなく時間です

 チェルノブイリを、ネットの写真や動画で見たりすることと、現場にいって見ることはかなり違いがあるという話。

 違うのは情報ではなく時間です。仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。そうなるとそこで思考が止まってしまう。
 けれど、現実ではそんなに簡単にキエフから日本に戻れない。だから移動の間に色々と考えます。そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しい言葉で検索しようという欲望が芽生えてきます。仮想現実で情報を収集し、すぐに日常に戻るのでは、新しい欲望が生まれる時間がありません。

 ツーリズムの語源は聖地巡礼(ツアー)だという。聖地なのだから目的地になにがあるのか事前によく知っている。知っているはずなのに巡礼する。巡礼の過程で新しい情報に出会う必要はなく、出会うべきは新しい欲望だという。つまり、旅行において目的地はさほど重要ではなく、重要なのはその過程にあるということだ。中国での旅行を思い出す。兵馬用はぼくにとってそんなに重要な記憶をもたらさなかったように思える。むしろそこにいく過程、鈍行で進む绿皮火车、舗装されておらず歩くたびに舞う砂煙、そんなことの方が記憶に鮮明だ。

p.96 未来のぼくが「過去のぼくはこう考えていた」といったとしても、そんなのは全くの嘘かもしれない

 未来のぼくが「過去のぼくはこう考えていた」といったとしても、そんなのは全くの嘘かもしれない。未来のぼくは、今のぼくの苦しみのことなど完璧に忘れてしまっているかもしれない。

 未来によって過去が変わるというのは同意できる。自由エネルギー原理では過去のアップデートが起こります*2

p.101 他人の苦しみを前にすると「憐れみ」を抱いてしまうので、群れを作り、社会を作ってしまう

 ルソーの人間観や社会観は、ホッブズやロックといった社会契約説の先行者とはまったく異なっています。ホッブズやロックは、人間は自然状態では争いを止められないのであり、だからそれぞれの権利を制限し、社会契約を結ぶのが「合理的」なのだと主張しました。ひらたく言えば、人間は理性的で論理的で、頭がいいので、自分の本性を抑圧し、社会を作るということです。
 それに対して、ルソーは、人間は孤立して生きるべきなのに、他人の苦しみを前にすると「憐れみ」を抱いてしまうので、群れを作り、社会を作ってしまうと説くのです。

 ルソーとホッブズらは二項対立的ではないと思う。なぜ人は社会を作るのかという問いを立てたとして、以下の点で対立的だろうか、考えてみる。
 ホッブズらは自然状態におけるやめられない争いを止めるため、契約を結ぶことで社会を作る。一方で、ルソーは人は「憐れみ」を自然に抱いてしまうため群れひいては社会を作るといっている。どちらも社会を作る要因としてあり得るだろうと僕は思う。
 社会を作るというのは、細胞が集団化するのに似ていて、違う。(人や細胞という)素が集まる点で似ているが、「憐れみ」を持つか否かという点で異なる。人は「憐れみ」を持ち、細胞は持たない(ように見える*3

 児童虐待を例に取りましょう。ここに、外見に全く異変がなく、綺麗な服を着た子どもがいるとする。その子が虐待を受けていると主張する。それを聞いてすぐに「助けなければ」と思うことができるか。それは難しい。その子は嘘をついているかもしれない。何か別の事情があるのかもしれない。もっと様子を見る必要がある。そう判断するのが自然です。(略)
 けれど、その子の腕が折れていたらどうでしょう。多くの人が、これは今すぐ手を打たなくてはならないと思うはずですし、それに異論も出ないでしょう。ルソーが「憐れみ」という言葉で呼んだのは、この差異のことだと思います。言葉でのみ虐待を訴える子と、身体に傷を負って虐待を訴える子に対する多くのひとの反応の違い——それは人間の限界でもあるけれど、しかしその限界こそが社会の基礎になる。

 やはり「憐れみ」というのは、状況に依るにせよ、見ることで生じる感情だ。ここでは、データの質の話をしていると思う。虐待があるか否かという判断における二項対立がある。その判断のもとになるデータを様子を見ながら人は判断する。身体に傷が見られるという、判断に大きく影響するデータが得られた時、人は二項対立において取捨選択する。  数学的には、これはベルヌーイ分布のベイズ学習である。背後にある共役事前分布であるベータ分布がデータにより変化するのである。興味を感じる点は、データに重みがついているということである。データは離散的で二項対立的なデータであり、それが尤度関数を通して事前分布に作用するのが普通でだけども、重みをつけるとすれば、尤度関数に重みを取り入れることになるのかな。少し勉強してみます。  また、「憐れみ」は上の学習においては出てこない。もう一段上の、判断の先にあると思う。

p.106
p.120
p.129
p.141 現地では思いついたことをどんどん検索し、その場で見聞を広げましょう

 それになにより、旅先で新しい検索ワードを手に入れた時、そこですぐ検索できることが意外と重要です。日本に帰ってきてあらためて調べようなどと考えても、調べるはずがない。旅先ではいつもの自分ではなくなります。その「ちょっと違った自分」を日本では回復できない。現地では思いついたことをどんどん検索し、その場で見聞を広げましょう。

 たしかに旅先では環境が違うからちょっと違う自分になるでしょう。感じたことは刹那的で失われやすく、だからこそ、その時その場で感じたことを広げていこうということだと理解をしました。
 僕はこの意見に反対します。僕は旅先ですぐに調べたりしたくありません。理由は、旅先の刹那的な感情は、たしかに失われやすいかもしれませんが、その失われやすいという弱い性質を大事にしたいからです。例えば、中国に行った時、町にあるご飯屋さんに入ります。壁に貼られているメニューを見て、読めない漢字や読めても実体がわからないものがよくあります。すぐに調べれば済むのですが、僕はただそれを眺めたり、知らないのに頼んだりすることがあります。僕がそうして眺めていると、たまに助けてくれる人がいます。あるいは、知らないので、それをどんなものか聞くことで教えてくれる人がいます。これは、弱いつながりそのものだと思います。なにより、すぐに意味に結びつけるのはあまり好きではありません。それに、つながらなくてもいいのです。ルソーが言った「人間は本来孤独である」とはこういうことなのかもしれません。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/マーク・グラノヴェッター

*2:https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022249621000973

*3: 「憐れみ」は、神経活動から生じるものである。神経活動は神経集団から生じる。神経集団は細胞集団(人)に包含される。人に「憐れみ」が生じるのであれば、他の多細胞生物にも「憐れみ」は生じそうである。けれども「憐れみ」のような感情は、神経活動から生まれるが、それにも層があり、単純な神経活動からは生まれないという説明が考えつく。つまり、単純でない神経活動から「憐れみ」は生まれる。単純でない神経活動は、高次脳機能とかと呼ばれる。すなわち、「憐れみ」は高次脳機能から生じ、単純な神経活動やそれを持つ細胞集団、ましてやそれを構成する細胞からは生じない。この説明は尤もらしいなと思う。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎

はじめに

⚠︎ 引用部では省略があります。そのため各自で本書を参照してください。挿入や改変はありません。

本編

p.47 心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない

まず肝心なことは、いつでも自分がほんとうに感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくことだと思う。君がなにかをしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない。(略)ごまかしがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、いったりしても、みんなうそになってしまうんだ。

p.62 なぜりんごの落ちたことから大発見をしたのかは、いつまでもわからなかった

 君のお母さんの説明を聞いていたぼくは、『ばんゆういんりょくってなにさと』と、質問したものだ。すると、お母さんもこまっちまってね。まず、地球と月、地球と太陽、いろいろな遊星などの関係から、説明してかかろうとしたんだ。今でもおぼえているけれど、お母さんは、ゴムまりやピンポンの玉をもちだして、『これが私たちのすんでいる地球よ。それから、これがお月さまよ。そうすると、こうなるのよ。』って、なんだかしきりに説明してくれたっけ。しかし、なにしろあいてが小学一年生なんだから、せっかく熱心な説明も、どうもそのかいがなかったらしい。ぼくも、なんだかわかったような、わからないような気持ちで聞いていたのをおぼえている。結局、そのときには、お母さんが困ったなあという顔をして、『こういうことは、まだ、あなたにはむずかしいの。もっと大きくなると、よくわかるのよ。』とか、なんとかいって、それでおしまいになったのさ。しかし、このこきのことは、へんにぼくの心に残って、それから大きくなるまでのあいだによく思い出した。よく思い出したが、なぜりんごの落ちたことから大発見をしたのかは、いつまでもわからなかった。

 りんごが三メートルの高さから落ちるのを見て、じゃあ十メートル、二十メートル、百メートル、二百メートル…と考える。月の高さまでりんごが行った時、それは落ちてくるだろうか。実際、月は落ちてきていない。地球からの引力と遠心力とが釣り合って、月は落ちてこない。りんごにも遠心力が働けば、重力と釣り合って落ちてこないはず。ニュートンは、重力と引力が同じものであると気づいた。

p.188 ああすればよかった、こうすればよかったって、あとからくやむことがたくさんあるけれど

「そりゃあ、おかあさんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとからくやむことがたくさんあるけれど、でも『あのときああして、ほんとによかった』と思うことだって、ないわけじゃありません。損得から考えて、そういうんじゃあないんですよ。自分の心の中のあたたかい気持ちを、そのままあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。」

 いい文章。

雑記

 統計学に、第一種の過誤と第二種の過誤という考えがある。例えば、本来効果のない薬を、効果があると判断すれば、第一種の過誤になる。一方、本来効果のある薬を、効果がないとすれば第二種の過誤になる。前者は効果があると判断するため、薬を服用するし、後者はしない。したことを悔やむことがあり、しなかったことを悔やむことがある。そして、本来効果のある薬を、効果があると正しく判断して、服用すれば、あとから『あのときああして、ほんとによかった』と思うかもしれない。そして、本来効果のない薬を、効果がないと正しく判断して、服用しなければ、あとから、あのときああしなくて、ほんとによかったと思うかもしれない。

 ところで、意思決定の場面で、統計の予測を考慮すれば、「自分の心の中のあたたかい気持ちを、そのままあらわして、あとから、ああよかったと」思えるのだろうか。

p.191 人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれる

「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。樹木は、自分をあわれだと認めない。なるほど、『自分をあわれだと認めることが、とりもなおさず、あわれであるということだ』というのは真理だが、しかしまた、人が自分自身をあわれだと認めるばあい、それがすなわち偉大であることだというのも、同様に真理である。」

 僕が何かを説明するよりも、次の文章を引用したほうがいいと思う。

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」 『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p.228

p.193 人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じることは、人間が本来そんなみじめなものであってはいけないからなんだ

 およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じることは、人間が本来そんなみじめなものであってはいけないからなんだ。
 コペル君、ぼくたちは、自分の苦しみ、悲しみから、いつでも、こういう知識をくみ出してこなければいけないんだよ。

 つらいと思うのは、一種の感情だ。感情はある種のズレから生じる。本来はこうだという設定値(セットポイント)があり、それと合わさる現状値(データ)がある。その差のことをズレと呼ぶ。ズレが小さければ、感情は生じず、ズレが大きければそれだけ大きな感情が生じる。
 設定値は可変だ。可変であるがゆえに、環境に左右される。「人間が本来そんなみじめなものであってはいけない」というのは、あるひとつの考え・意見にすぎない。逆は、人間はみじめでも構わない、となる。どちらを取るのかは人次第であるが、マジョリティーは前者だろう。考えたければ、みじめというのはどういうことか考えたらいい。

雑記

 意見は外部にあり、内部に入り込む。意見は複数あり、人それぞれに入り込むが、時代・場所を共有していれば、同じ意見が大多数の人に入り込むことなる。この時、大多数に入り込んだ意見(観念)もある一方で、少数に入り込んだ意見もあり、後者は偏見などと呼ばれる。

 呼び方は他にもあり正直よく分からない。外部と内部、多数の人を意識している。

p. ガンダーラの仏像を作った人々は、相当長い間東洋の空気を吸い、仏像の気分に浸っていたギリシア人であった。

  

君たちはどう生きるか』をめぐる回想 丸山真男*1

ひとから持ち上げられたり、舞台の前に押し出されたりすることを極度に避けた吉野さんが

 ひとから持ち上げられたり、舞台の前に押し出されたりすることを極度に避けた吉野さんがご存命ならば、こういう仕方の回想にも照れて顔をそむけられるかもしれません。でも、これはあくまで未知の一青年の魂に刻まれた、あなたの思想の形姿であって、ここにあなたが主体的に関与しているわけではありませんので、お許しをいただきたいと存じます。

 そういう方だったんですね。また、吉野さんの人柄は「モラーリッシュ」と形容されうる、と書いてある。

調べて考えたことをメモする。カントが関わる。

カントは,科学的な自然認識の成立根拠に超越的な人間理性をおき,それとの関係で感性とつながった悟性的認識と純粋な理性的認識を区別して,理論を2種に区分けするとともに,実践をも,感性的・経験的動機に規定されたプラグマティッシュ(実際的,有用的)な実践と,理性の法則に従うモラーリッシュ(道徳的,精神的)な実践とに区別して,後者すなわち倫理的実践(行為)をすぐれた意味での実践と考えた。*2

 モラーリッシュとは道徳的という意味らしい。それが理性の法則に従うとはどういうことだろう。

   まず、人間は観測により、データを得て(感覚)、生成モデルを作る(認識)。だから、観測できずデータを得られないものについては認識できない。データを用いて生成モデルを変化させる過程において、あるルールがあり、それを実践理性と呼ぶ。逆に、データを用いずに、生成モデルが変化していくこともあり、その変化のルールを純粋理性と呼ぶ。  観測できないものについて、純粋理性を用いて、考えよう(?)とする立場があり、それを批判することを純粋理性批判と呼ぶ。一方、観測できるものを、実践理性を用いて、考えようとする立場があり、それを批判することを実践理性批判と呼ぶ。  そして、モラーリッシュ=道徳的=実践的と考えれば、吉野さんは実践的なひとだったことになる。簡単に言えば科学的な人とも言えるだろうか。  

  

最後に

 この本は、文章中の一段落を切り取って引用する類の本ではないのだろう。重要だと思える箇所が文章中にグラデーションになっているし、何気ないストーリーが尾を引いて効いてくるからである。だから、どこを引用すればいいのかを決めるのに苦労した。

Loves Me, Loves Me Not

Guest Column: Loves Me, Loves Me Not (Do the Math) BY STEVEN STROGATZ

この記事を読みました。

Guest Column: Loves Me, Loves Me Not (Do the Math) - The New York Times

この動画から知りました。

www.youtube.com

行列というのはベクトルを変換するものです。変換を連ねれば、時間発展する微分方程式で表現できます。グルグル回る時があり、その様子が近づいては遠ざかる恋人に似ているということです。

The Star-Crossed Lovers - Duke Ellington

www.youtube.com

こんな曲を思い出しました。聴きながら英語を勉強しました。

英単語・英表現

tongue in cheek ... 冗談混じりの
人をからかった時や冗談を言ったときに、口の内側から舌を押し出すような仕草をする人がいます。そこから生まれた言葉です。日本人はしませんね。

star-crossed lovers ... すれちがいの恋人
星は固有の軌道上で楕円運動する。引力と斥力のため、二つの星は近づいては遠ざかり、遠ざかっては近づく。交差する(Cross)二つの星を恋人に見立てている。

ebb and flow ... 満ち引き ebb は潮が引くこと、flow は満ちること。何だか不思議です。そもそも、日本語では、潮が引くとはどこへ引くのでしょうか。月の引力によると思うので、月から地球へ垂線を下ろしたときに、その一点が一番引力が強そうです。一次元の点です。一枚の布を指でつまみ上げるようなイメージでしょうか。だから、指を離せば、二次元上で四方に広がっていく、これは満ちるイメージです。イメージの次元が違います。英語の方からは、このイメージが得られませんでした。だから不思議です。

a Flirting Fink ... ? Flirt は異性の気を引こうとすることで、あえて日本語にすれば「ちょっかいを出す」あるいは「誘惑」のイメージです。Fink とは「嫌なやつ」だそうです。元々はミンクと白イタチの合いの子を指す言葉らしいです。綺麗な毛皮を得るために掛け合わせるのですが、思い通りの毛皮の子どもが得られなかったときに Fink と呼ぶそうです。昔の土汚れた男が「こいつは Fink だから捨てておけ」 と言っている様子を想像しました。

baffling ... 気まぐれな 例文「my girlfriend’s baffling behavior」困惑する感じです。

【読書】虫眼とアニ眼 [養老孟司、宮崎駿]

先日、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を観てきました。
彼がどんな人が知りたくなったので本書を読みました。

養老孟司との対談形式で、1997年、1998年、2001年の三回の対談が収録されています。

対談1 1997

p.41 やぐらみたいなものをまず組み立てる(宮崎)

映画を作るときというのは、こうやってこうやれば納まるなという、やぐらみたいなものをまず組み立てるわけです。(中略)つまり、解決するためには、解決可能な課題に絞り込まなきゃいけない。(宮崎)

宮崎駿は創作時に何かしらの問題を提議すると言っている。

もののけ姫」であるサンという女の子の、人間に対する憎悪とか不信を、はたして解放することができるかどうかというのが課題だったんですが、作っていくうちに、どうにも解決できない、解放なんかさせたらウソになる、そういうところに行かざるを得なかった。自分の中で全然払拭できないんです。(宮崎)

ただし、問題が創作を通して、必ず解決するかといえばそうではないらしい。

p.43 ぼくには確信なんてなにもないんです(宮崎)

できた作品に関して、どうかって聞かれても、こんなこと言うのはみっともないことですけど、ぼくには確信なんてなにもないんです。(中略)この映画を作んなきゃいけないと思いこんだ動機みたいなものが、実は多くの人と共有していたと言うことくらいしか、僕には答えようがない。(宮崎)

p.43 脳みそ人間だけを育てようとしてる(宮崎)

宮崎駿の元へ、親たちから手紙が届く。子どもはトトロが大好きで、もう100回くらい見ている、と言う。それを読むたびに宮崎駿はこれはヤバいなあと思う。

養老さんが言うところの脳化社会にぴったり適応するような脳みそ人間だけを育てようとしてるでしょう。トトロの映画を一回見ただけだったら、ドングリでも拾いに行きたくなるけど、ずっと見続けたらドングリ拾いに行かないですよ。(宮崎)

なぜ繰り返し見させるのか、親側に特に理由はないだろう。理由があるとすれば、見るたびに気づかなかったことに気づくことができるから、かもしれない。これは明らかに打算的な行為だ。分からないことを知るために、もう一度見る。これは悪いとは言えない。悪いのは何度も何度も見ただけで、全てを理解した気になることだろう。

何度も繰り返し見たり読んだりする作品が僕にもあるにはある。なぜ読むかと言えば、僕にも分からない。少なくとも、何かを得ようとしているわけではない。それは悪くないのではと思う。逆に、何かを得ようとして、執拗に追及しまくることか?それも必ずしも悪いとは思えない。ただ、繰り返すことで、行為から目的が抜け落ちる(形骸化する)ことがある。それはこわい。

脳化社会とは何か

都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。(唯脳論

僕の理解では、脳化とは脳による行動により(つまり人為的に)ものがつくられたり・つくり変えられたりすることである。地面を平らにし、壁をつくる。雑草は抜かれ、選ばれた植物だけが道路脇に並ぶ。地面がでこぼこしてたら、転ぶかもしれない。転べば、怪我をするかもしれない。「ああすれば、こうなる」と予測し、繰り返し、比較し、一番良さそうな行動を選び、社会全体に適用していく。一見合理的であるが、人の脳は完全に合理的ではない(全ての可能性を考慮できない)ため、どこかでゆがみが生じる。脳化していく結果生じるゆがみを肌で感じつつも、わかりやすい利益・メリットが目の前にぶら下がっていれば、人はそれに手を伸ばすものだ。理由がつけられるから。

p.45 すぐなにか原因があるはずだとか、誰かのせいにしたがる(宮崎)

親の方は、すぐなにか原因があるはずだとか、誰かのせいにしたがるけど、どうも、「せい」だけではすまないくらいのスケールで、何かが突然やってきて巻き込まれていく。子どもたちはそういう感じを、本能的にキャッチするんじゃないかという気がして仕方がないんです。ところがそういうことに対して、大人はまったく答えてないですね。とりあえずは「勉強しろ」と言う(笑)。

今回の新作でも、こうした大人が出てきたな。理由をつければ、行動しやすくなる。理由がつけられないものは無視する。

p.49 平らな地面の上で、前ならえして、行進なんかしてちゃダメなんだ(宮崎)

いま子どもたちに起きているさまざまな問題が”教育問題”だけで解決するのかどうか。文部省や教師のせいにする人はいっぱいいるけど、それは違うと僕は思うんです。みんなでよってたかって、こういうふうにしたんですよ。じゃあどうしたらいいのかって考えると、僕が思いつくのは、学校の校庭を平らなのをやめてデコボコにしろとか、運動会は、丘から丘に紐を張って、それにぶら下がって渡れば良いじゃないかとか、そのくらいしか思いつかない。(略)このままじゃダメなんですよ。平らな地面の上で、前ならえして、行進なんかしてちゃダメなんだ。(宮崎)

宮崎駿はコミット(デタッチの逆)の傾向が強い人だと思う。対象は子どもたち。

ちなみにこの本の最初20ページくらいは宮崎駿のカラーのスケッチで、デコボコな保育園とかが描かれている。絵というものはすごい。

p.50 感性とは「なんかほかと違うぞ」って変化がわかること(養老)

感性の基本には、ある種の「差異」を見分ける能力があると思う。(略)平たく言えば、感性とは「なんかほかと違うぞ」って変化がわかることと言っていいんじゃないだろうか。で、現代の人間、特に子どもたちが、今どこに差異を見ているのかを考えると、結局人間関係の中にそれを見ちゃっているんですね。僕らの頃は、「なんか違うぞ」っていうのは「蟹がいねえぞ」だったんです。(略)いまや子どもまでもがそういったディテールを見分ける能力が抜け落ちてしまっている。(養老)

ディテールを見分けるというのは好奇心から生まれ、同時にディテールを見分けているうちに好奇心を養うと思う。だから、細部に神が宿るという。ディテールを無視する競争社会では、好奇心は育たない傾向にある。問題といえば問題だけど、今にはじまったことなのか、という点で真に問題かどうかは僕には分からない。

p.51 自然環境というのはものすごいディテール(養老)

蝶は飛ぶときに、好き勝手に飛んでいるわけではなくて、「蝶道」と呼ばれる道に従ってヒラヒラ飛んでいるんですね。(略)蝶は周囲の環境を全部それなりに把握して、脳から各運動器官に出力しているのだろうと。そう考えれば各個体の運動の軌跡が全部一緒ということも納得できる。(略)そうやってハタと気づくのは、自然環境というのは、ものすごいディテールで成り立っていて、今の人間は、それを完全に無視して生きているということです。(養老)

海野和男さんの蝶道の動画 www.youtube.com

蝶道についての有益な科学論文は見つけることができなかった。何が蝶道の形成に役立つのかは分からなかった。英語では Flyway になると思われる。

あるブログでは

この行動は、特にアゲハチョウの仲間に見られ、飛ぶルートは食樹や食草の位置、飛ぶルートにある葉っぱの明るさなどが影響しているといわれています。よって、時間帯によって蝶道は変化していきます。毎日同じ時間に同じ場所を飛ぶことが観察されます。*1

p.53 人間に関心が向きすぎていて

その先生が「差別はなくならない」という。何が問題なんでしょう?もっと一人ひとりが強くなることなんでしょうか?なんて聞いてみたんですが、昔を考えてみても、もっとひどいイジメや差別はあったけど、とにかくみんないろいろ切り抜けて、こんなに悲惨なことにはならなかった。(略)でもいま、養老さんのお話をうかがっていると、人間に関心が向きすぎていて、その結果「アイツが気に入らない」だとか「アイツはダメなやつだ」とか、人間に関しての話題ばかりになるんだ、と。(宮崎)

p.54 遠い人類より、隣の人を愛しなさい

昭和三八年に東京からカワセミが消えたんです。(略)結局、あの急激な高度経済成長で、僕らはなにかを侵してしまった。(略)世の中には悪いヤツが必ずいて、そいつをやっつければ、この世は良くなるという考え方、あれは、もうやめようと思っているんです。そうじゃなくて、こうなったのは、みんなで一緒にやっちゃったんだというふうに思わないと、何も道は生み出せないと思う。(宮崎)

ただでは成長はできない。その結果失われたものをどう取り戻すのか。

この前散歩をしたときに通りかかった教会の前に書いてあったんですが、マザー・テレサは「遠い人類より、隣の人を愛しなさい」って言ったそうですね。なるほどと思って帰ってきたんですが、改めてそう言われると、確かに僕らは人類のことを考えすぎてますね。(宮崎)

韓非子曰く、遠水は近火を救わざるなり。遠くの親類より近くの他人。

続く