「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まっているんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
「人はみんな弱い」
「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしているんだ」
鼠の言う弱さとはいったい何なのか。
一般論を並べても本当に人はどこにも行けないのか。
たしかに『僕』が言うように人は誰しも弱さを持っている。人前でうまく話せないだとか、逆に話すぎて相手を辟易させてしまうだとか。自分のことに集中しすぎて周りが見えなくなってしまうだとか、周りのことを気にしすぎて自分ことに集中できないだとか。学校で嫌というほど書かされただろ?
個人的な話をすれば、僕は自分の長所や短所を書かされることが大の苦手で、小学校の時なんかは授業の終わりを告げるチャイムが鳴っても一文字を書けなかったくらいだった。家に宿題として持ち帰って考えても、やっぱり何も書けない。そうして書けないでいると母親がやって来て、僕の短所や長所を洗いざらい話してくれる。そうすると僕は人がそう言うんだからそうなんだろうと思って、スラスラと書いちゃってファイルに入れて安心してランドセルに突っ込むわけ。
でも実は、何も書けなかったわけじゃない。僕は僕の長所や短所を思いついては紙に書きまくっていた。でも、一度書いてそれを読み返してみると、途端に嘘くさくなって消しゴムで痕も残らないように丁寧に消すわけだよ。だって、たとえばさ、初対面の相手に気兼ねなく話しかけられると長所の欄に書いたとして、それを見返すと初対面でペラペラと話しかけられたくない人もいるよなと思ってしまう。そうすると長所が短所に思えてくるんだ。
だから、僕は人の長所や短所は人の見方によって変わるって思うようになった。人が変われば見方はもちろん変わるけど、同じ人間でさえ案外ころっと変わってしまうって思ってる。じゃあ、この見方とか言うやつは何だと考えた時に、自分と特徴と他者の三点からなると考えるわけ。自分と特徴(気兼ねなく話しかけられるとか)を固定すれば、他者を変えてみられるわけだけど(変数だね)、想定する他者を変えると、特徴が長所であるか短所であるかも変わるってことが言いたい。すごく当たり前のことのように思えるけど、案外大事な形式化じゃないかって自分では思ってる*1。
並べることと選ぶこと:脱構築と投企
長々と書いたけど、話を戻せば、一般論というのは見方を変えてみるってことなんだと思う。正確に言えば、あることに対して、見方を変えながら考えてみて、それをただ並べ立てるみたいなこと。大盛りカツカレーを食べればダイエットには良くないけど美味しいと思えて幸せだし、逆にそれを我慢すればダイエットは達成できるけど不満がたまるかもしれない。カツカレーを食べるメリットもデメリットもあるし、食べないこともまた然り。ちなみにこれは『脱構築(deconstruction)』という考え方でデリダが言ったらしい*2。
つまり、『僕』は一般論を大切にする脱構築主義者って言えるかもしれない。脱構築は物事に対して対立する考えを提示し、その良し悪しを判断するのを保留するわけで、とても冷静な、そして理性的な考え方のように見える。でも、僕たちが行動する場合にはどちらかを選び取らないといけないんじゃないか。結局、カツカレー食べるか食べないのかどっちなんだいってことで。人に話しかけるのか話しかけないのかどっちなんだい、選ばないといけないよね(きんにくんってつまんないけど面白いよね)。だから、一般論をいくら並べても人はどこにも行けないんじゃないのか。脱構築し、選択肢を得た上で、選ぶ*3。この選ぶというのをサルトルは『投企(projet)』と呼んだんだよね、変な言葉だと思うけど。
では、種々様々な弱さがあるとした上で、個人的な弱さに鼠は固執したわけだけど、いったい鼠の言う弱さって何だろう。
つづく